日本発の論文数の低下 追記しました

日本の論文数が外国に比較して地位低下が著しいとの記事をみました。
そうだろうな、とおもいます。
もう長らく続いている日本の研究費の集中、重点化、5年おきに生まれる新研究分野への研究費特化による研究者の先鋭化による結果に違いありません。
研究者といういきものはニッチ的なもので、たとえ年間50万円の研究費でもひとたび頂ければ一生懸命論文になるようなだれもやってないトピックを探して研究をするのです。
論文を書こうとする研究者の数が減ればとうぜん論文数も減るでしょう。こう推測します。
わたくしが研究費をひろく浅くばらまかなければ大変なことになると要職の人に会えば常にいっているのもこういうことをおそれてきたからです。
1960年代から70年代の頃の乏しい研究費ではあるものの一律の大学や研究所の講座費で広く浅くやって来た研究の広がりもとうとう枯渇してきたのかと思います。わたくしなどがそういう環境の中で育ってきたというかなんとか生きぬいてきた雑草のような世代の研究者です。広く浅くの成果でここまで来たのです。でももうこの世代も消えてしまったか、消えつつあるのです。
集中と重点で育ったいま40代、50代前半までの世代、さらにかれらよりずっと若い世代はどうなるのでしょうか。わたくしにはまったくわかりません。
もっと若い20代になるともう研究の世界にやって来ないと聞きますので、日本のこの厳しくも先鋭化された重点化された研究環境はいかなる人材を生みだすのか、大きな疑問符です。日本の研究環境、これからどう進むのかどういう人材がうまれてくるのかわたくしには皆目わかりません。いや、わかるような気がするのですが、それは困るから、わからないと思いたいのです。

論文の数はまったく重要でないという類の行政系かたの意見も聞きたいとはおもいます。
特許が重要とか論文は二の次ぎ、企業系の研究者はまさにそのような発言をするはずでわたくしも会議などでよく聞いたものでした。特許だけが価値があると。しかしその特許も国内特許ではほとんど価値がなく世界特許は維持費が大変、ということで、ここも少数化で、なにをかいわんやという気持になります。

読み返してみて「浅く」というのが誤解されるのに気がつきました。これは研究内容が浅いのではないのです。研究のサポートの程度が浅いのです。でも最初の大切な発見があればより深い研究は世界のどこかで行われるのです。それでいいのです。サポートが浅いのですから。わたくしが常に言うinitial findingの重要性です。
ノーベル賞だってそれだけでもとれるのです。研究費50万円でもそのような巨大な未来を暗示するinitial findingにたどり着くかもしれないのです。そう思って、大きな夢をもって些少の研究費でも溌剌と研究が出来るのです。雑草のような研究者は。そういう研究が日本の原点的な研究だったのです。
まず生きるに最低限の生活費をください。そして些少の研究費をください。研究テーマは自由に選ばさせてください。でもたとえ50万円の研究費でもどのような成果が得られたかきちんと評価されるのはいいです。でもテーマは自由にやらせてください。これが雑草派の研究者の本音でしょうか。

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