研究者を志望する若者たちが減っていることはわたくしにとっては大きな関心事ですが、志望者が減っているのは、志望しても先が見えない。たとえ志望しても破綻してしまうのではないか。自分のケースというよりは、周囲の年長の人たちを見てもうまく経歴が伸びている人はごく少数にしかみえない。
破綻するよりはより確実な安心そうにみえる職業にいた方がましなのでは。
ここで話題にしたいのは、「破綻」というコンセプトです。先行きの人生が破綻してしまう。
計画通りにいかない、期待通りの人生にならない、破綻人生を歩むのではないか。
破綻とは英語辞書ではfailureと訳語にあります。つまり失敗人生に終わってしまうのではないか。
しかし、破綻という言葉の字をよくよく見るとちょっと違うのかも。
破はまさに破れるです。綻はほころぶ、縫い目がほどけてしまう。つまり、布でいえば、破綻は破れて糸がほつれてしまう、ということで失敗というコンセプトは必ずしもありません。表情がほころぶとあるように、硬い顔つきが笑い顔になるような意味すらあります。
国語辞書をみれば、破綻は、破れほころびること、が一義で、修復しようがないほどの状態が第二義なのです。
修復しようがない、行き詰まる、これがたぶん破綻の意味でしょうか。
失敗という意味は三義くらいではないのか。
人生において破綻は小さいものなら山のようにあるでしょう。思うようにいくことはなかなかないものです。
しかし、大きな破綻をしても、よく考えるといつまでもそこに止まっているのではありません。何らかのかたちで、破綻の次の段階に行くのです。
「前向き」、「積極的」にとらえれば破綻によって、新しい機会をつかめるようになるのでしょう。破れほころびた下から新しい「地」が出てきたり見えてきたりするかもしれません。
破綻の後に、新しく出てくる次の「地」が大切なのでしょう。
そもそも大学院の生活など辛いことばかりではありません。人生の一番素晴らしい時代だったとふり返ることになるかもしれません。わたくしはそう思っています。
プロのスポーツ選手多くは30代で引退してしまいます。そこで破綻したのでしょうか。そんなはずありません。
それぞれの職業世界にはそれぞれの「引退後」の職業があるでしょう。ピンキリのことはいうまでもありません。
破綻というのは考えればひどく深刻な言葉でなく、軽い意味でとらえていいと思うのです。破綻にもピンとキリがもちろんあるでしょう。
破綻した後の破れたところから見えて来る新しい地がなにか、楽しみにすることも出来るはずです。
わたくしの敬愛する五木寛之氏は仏教の世界では、だいたい人生とはうまくいかないものなのだ、と言っておられます。どっちみち誰もが死ぬのですから、そうなのでしょう。
仏教の世界のことはわたくしはあまり知らないのですが、研究の世界を目指しても誰もが大成功などするはずがありません。一見、大成功したように見えてもそうは感じないものなのでしょう。
研究の世界を目指して、どこの時点で小破綻、大破綻するか、ひとりずつ違うのでしょうが、それが早く来すぎたからといっても、遅く来た人が幸運かどうかはわかりません。
研究の世界では誰もが平等だし、大抵のひとたちは運鈍根でやっていくしかないし、この極めて夢の深い世界をぜひ体験してみようという人々がぜひいて欲しい、どんどん希望する人たちが減っていくというのはあまりにも残念な気がするのです。