今年の夏にしばしばおもったことは、沖縄で研究を始めてからほぼ10年が経ったか、という感慨でした。
10年前うるま市での最初の頃はすべてが手探り状態であって、でも白紙の上に何かを描いていく作業に近いのでふり返ればたいへん楽しく意気盛んな時期でした。
沖縄でなにを始めたかというと、ともあれ細胞分裂をしない細胞の特徴を掴もう、分子的な特徴をなんとかつかもうという研究の開始でした。幸い長年研究材料にしている分裂酵母では窒素源を飢餓状態にすると分裂しない細胞になり、これがたいへん長生きであることがむかし台湾出身のコロンビア大学で学位をえたソフィア・スーさんがラボでポスドクをしていた時にかなり沢山のデータを出してくれたので、これをネタに始めたものでした。
これが出発点でしたが、研究はどんどん進展して願い以上予想をはるかに越えて発展してしまいました。最初の5年で基盤を築き、その後の5年ではっきりした成果があがるように研究方向を明確にしました。その成果を世に問う時期になり、発表の努力をしています。ヒトの血液を対象にする研究も成果を世に問う時期になりました。
それでなんどもこの10年という期間のあいだにあったいろいろな情景がおりおりにフラッシュバックのように思いだされました。
不思議なことに沖縄の風土が深く絡むような情景がほとんど出てこないのが不思議でした。
京都での研究の進展はいろいろな京都的な場所や人物と深く関わりながら起きたのに、なぜ沖縄での研究はこうもローカルな色づけがすくないのか、よく分かりません。
たぶんわたくし自身が京都でのラボが3年くらいまではあって二重生活をしていたからかもしれません。京大にラボがあったときには沖縄での研究とは峻別していたつもりでしたが、それが原因かもしれません。
今となると、ラボは一つだし、その結果進行するプロジェクトは増えたものの、沖縄でのメタボの研究、G0期の研究は独自の成果を色濃く出しているのに、なかなか京都の時のような特有の色がつかないのはなぜか。
わたくしがまだ沖縄での研究が単に設備があり研究費があり、という点をはるかに越えた土地柄と密着した研究成果として打ち出せてないのでしょう。
生活スタイルの問題かもしれません。
沖縄色が濃くなるにはもうすこし時間がかかるな、というのが正直な感想です。
その時間がどれぐらいと聞かれると困るのですが、でもそういうものが出る気運はすこしある、と感じています。
年の功で気が散るようなものには関心を抱かないし、研究一本やりで行くことが出来るのですが、伏兵は予想外のところから現れるので、それがいちばん用心しなければならない点ではあります。