なんべんも捏造データ論文についてこのブログでも触れています。わたくし、この問題について若い頃はゴシップ的な知識は割合豊富でした。そういう知識を基に捏造データを避けるために、ラボ内では極力「正直がすべて」という方針でいきました。つまり論文での明白な過ちは恥ずかしいがしかし人間である以上過ちはしかたがない、しかし意図的なデータ改竄はこれは学問上の犯罪なので、判明したら、即刻永久レッドカードと、ラボヘッドとして、躊躇なく言っていました。しかし、それは近辺にそんな人物など出るはずがないという強い思い込みがあったことも事実です。
運良く今日まで京大の生物物理で若い仲間と研究を始めてから、40年になりますが一度もありませんでした。
いっぽうで、いわゆる2勝1敗のデータをどう扱うかは難しいものです。
つまり繰り返す実験の結果データが2方向に向いた場合です。正直、難しい。どうにもならなければ実験回数を増やすか、データを公表しないというものです。
でもこういう考えはあまり元気が出ない。
それで発展的によく分からない結果を生みだす実験を回避して新しい実験を始めてなんとか答えを生みだそうとするものでした。
正しい答えはそれがそもそも出るものなら、未来で分かるはずですから。
学生としてわたくしと一緒にやった若者たちはこのあたりのわたくしの悩みと克服の努力を理解してくれたはずです。
しかし、意図的でなくてもなんとか思った通りの実験結果がほしいというのは、仮説にドライブされて研究を進めるすべての学徒にはまさに避けられない性であるでしょう。
しかし、こういう問題には正直というかたちでしか対応出来ないということがあるのですね。正直のうえにバカがつくような正直さがベストです。研究室の主宰者と現場ではそこで激しい応酬があって仕方ないのでしょう。
わたくしが科学研究というのはある意味宗教的行為と感じたりするのはこのあたりです。つまり全知全能の神様のまえで学問をやるので、嘘をついたら舌を抜かれるという類の必罰の畏れですね。それと未来の神様が真の解答を知っているという,信仰ですか。
ですから正直以外に簡単な救われるすべがない。
それで、話を元に戻すと、もう50才台に入ってから、捏造をする研究者を親しかった人物にみてしまったものです。
この体験ある意味わたくしの捏造観を根底から変えるものでした。それ以来わたくしは捏造をする人間に興味を持ち始めたのです。なぜ彼らは捏造をするのかそれで教授になったり名声をかちうるということが本人にどういう意味があるのか、そういう強い関心を持ったのでした。
つまりレミゼラブルとか罪と罰の主人公たちではないですが、悪事ではあるが本人の内面ではかならずしも悪事を犯すという意識がないのはなぜか、そのようなことについて黒と白だけでなく、なぜ学問の世界では一定の頻度でこのような人物がでてくるのかその生成の仕組みのようなものにも興味を持ちました。
これがわたくしが持っていた過去形での関心でした。古典的な悪漢つまり捏造研究者の人間像はわたくしのような旧式な研究者観を持つ人間にはそれなりに関心を持てたのでした。
ところが最近はだいぶどころか全然人間像が違ってきたのではないか。
共通点は、教授になるもしくは高額研究費をえる研究者の仲間になれる道として捏造をする、タイプの人間であることには変わりはないように見えます。
しかし悪漢的要素よりも紳士的な要素のほうが高い、つまりエリート教育、恵まれた家庭、温厚な人柄、こういう人たちが捏造に手を染めているようだ、ということです。
貧困から這い上がりたい、這い上がるためには自分を愛する女性も殺してしまうような三国連太郎が演じた飢餓海峡での逃亡者、つまりそういう古典的な捏造研究者はもういないのだ、というか元々いなかったという、ことがわかって来たような気がします。学問は所詮ある程度恵まれた人がやって来たものなのだ。わたくしは大きな勘違いしていたのかもしれない。
今後、エリート教育、恵まれた家庭、温厚な人柄、こういう人たちが研究社会で増えるのなら、捏造論文も捏造行為者もそれに比例してどんどん増える様な気がするのです。成功へのプレッシャが生みだす人々の行為なのだろう、と。捏造はその気になればあまりにも容易にできるからです。
かなり物騒な予想ですが、でもまあ案外多くの人たちがうなずくのではないか。
平和で質素で正気に生きる多くの人が作り上げている日本社会の危険な一面がこのあたりから露出しているように思えるのです。
穏和そうにみえる大きな社会層での上澄み部分にある病的な様相です。成功へのストレスがどんどん増えてそれに容易に負けてしまう人々が静かに増えているのかも知れません。
わたくしにはもちろんこの問題の解決策など持ち合わせておりません。
むしろそういう推測があたってないことを祈りたい気分です。