マーケット用語の氾濫

きのうのいろんな話題の中で、「癒しというくらい卑しいことばはない」というのがありました。わたくしには調べようもないので聞いた出典をここに書くのはやめておきますが、O夫人、これがたいへん立派な意見だというのです。直感的にそう感じるという意見でありましたが、うなずける点はあります。
そもそも癒しとかって、結局なにかの対価として得られるという形で使われてるし、結局マーケット人に踊らされているのではないでしょうか。
わたくしは、あの「至福」とかいう表現がそうじて、いやです。これもどこそこにいったらとかなにかをしたら、至福の思いがしたとか、結局お金とかちょっとした経験をそういう表現で表してるのですね。
よくよく考えると、どうもわれわれはマーケット人のしかけに乗らされていることが多いと思うのです。
最近では、広告媒体も多岐にわたっていて、テレビや新聞での広告だけが広告じゃなくて、雑誌が丸ごと一冊全部広告料から成り立っているなんて言うのは多いです。それ自体は悪いことでもなく、企業であれば宣伝は当然、ありとあらゆる媒体を使って企業の活動しやすいようにしてくるのは当然でしょう。
問題は、そこで使われる言葉やコンセプトで、これがわれわれの頭の中に忍び寄ってきて、いつのまにやら定着して来るのですね。
たとえばの話し、毎日スポーツドリンクや、最近流行のサプルメントをとる場合、その行為を恒常化している何かのコンセプトがあるはずです。そのコンセプトはたぶんそれらの商品をつくっている会社にとってありがたいし、商品の販売存続に不可欠でしょう。
コンセプトが強くて、深くしみ込むものであれば、ますますいいに違いがありません。そんなものにわれわれは相当犯されているような気がします。わたくし自身、そういうものに相当抵抗した生活をおくっているつもりですが、やはりマーケット人に一本とられているものもかなり多数あるかもしれません。
しかし、一本とられても、笑い話ですんでればいいのです。毒にも薬にもならないものを、本人が効くとおもって毎朝摂って、何十年それでしあわせな生活が出来ればそれでいいでしょう。癒しの旅行に出かけて、癒しの気分が得られたら、癒しがキーワードで幸せが得られるなら、目くじらを立てることはないと思います。高価な食事をしたら至福なというコンセプトでも無ければ損したと思う人にとって、至福もしあわせに生きるうえで必要な感覚なのでしょう。これも他人がとやかく言うことではないのでしょう。

しかし、素晴らしく安くて広いマンションで、とてもいいものを買ったと、得したとニコニコ喜んでいたら、それが震度6程度で倒壊する可能性が大の住居であったというのはひどすぎます。安い、広いということばで引きつけられたら、とんでもないものをつかまされてしまった。安い、広い、しかし非常に頑丈で安全、という宣伝では無かったということなのですね。住居知識として、やすいのは危ないという、知識もマーケット人が教えてくれたら良かったのですが。これは、まず論外として、しつこくわたくしが話題にするたばこはニコチンが多くの人にとって麻薬性が高いということをどこまでJTが伝えてるかです。癒しと、ときおり至福のひとときが得られるのだから、しかたないという方は確信者ですから、他人に迷惑をかけない範囲で喫煙すればいいのですが、そこまで確信してなかった人達は、麻薬におかされて、いろいろな病気になって始めて、そんなはずではなかったとなってるはずです。

わたくしは始めて関西に来た頃、大阪の町に出かけていつも感心したことがあります。
それは、「値打ちありまっせ」という言葉でした。端的にこれほどマーケット言葉として優れたものはないとおもうのであります。いまでも、大阪の店で、中年のおじさんやおばさんに、これ値打ちありますよ、といわれると、どう値打ちがあるのか、すぐその理由を考えたり、聞きたくなります。機会があれば、ねほりはほり聞くと、いろいろ人生勉強ができます。そうか、そういう値打ちだったのか、へえーなるほど、そういう「価値感覚」があったのか、常に発見がありました。大阪の町をぶらぶらするのはほんと「値打ちがあります」。

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