わたくしは数人ですが、いわゆる研究不正をした人たちを知っています。同一のラボではなかったのですが、でも折々に会って自分では親しい友人かもしくは学会での長年の仲間、そんな風に思っていました。もっと浅いつきあいの人たちもいました。
そうじて感じのよい人たちで周りのひとびともおおむねそう思っていたにちがいありません。
研究者としてはそれなりに目立っており、もしくはその分野では国内的には著名だったといってもいいでしょう。
なかには感じのあまり良くない人たちもいました。特にある人の場合には論文を読んだ瞬間からいやだな、と思いました。データがきれいすぎて、自然なデータの感じがしない。しかもどこかで聞いたストリー、なんと自分たちの作ってきたストリーによく似ているじゃないか、でもホントかな。そういう感じです。この場合は研究不正と確立してませんから、これ以上は書きにくいのですが。でも多くの研究者が自分の研究に極めて近いと、なんだか変だぞと思いだす論文はおりおりにあるものです。疑念はそこまで止まりの場合もあるし、学会であって話をしようとすると、避けられたりして,釈然としないことはあるものです。でも大半は疑念はそこまでです。不正を発見するのはなかなか大変でした。というか思い過ごしの場合も多々あるでしょう。
あるていど昔のはなしですから、いまのようなデジタル画像の改ざん操作とか既に存在するデータや記述のコピペとかでなく。データはまさに捏造つまり言葉は悪いのですが、でっち上げデータですから、今の時代とはだいぶ異なります。
そういう事で昔の話と聞いて欲しいのですが、そうじて研究不正者は感じがよい、研究社会のよき市民と思えたものです。
ですから、不正者の発見はおおむねラボ内で起きたものです。そういうことを聞いても「まさか」と思うのはつまり本人の「裏」を知りうる機会はラボ内や極めて近傍の人たちでないと無理なケースが多いのです。研究不正は粗暴犯でありませんし、その一点を除けば生活的に破綻してない場合が多いのです。
しかし、ラボ内でかなりそばにいれば、なんだか変だぞと思うような機会があるのです。
わたくしはそういうラボ内で同僚の不正を発見した人から話を聞いたことがあります。
すんでから随分時間が経っていたので、そのひとも冷静客観的に話してくれましたが、そのときは非常な葛藤があったことは間違いありません。
最初は「まさか、まさか、で始まり、この人はこういう人だったのかという驚愕と同時に底知れない恐ろしさというか人間そのものに対する恐怖を感じた」ということでした。本人に不正行為を知っていることを直接伝えても、まったく表情を変えずに言下に否定された時以降は、自分がもしかしたらまちがいだったのではないかと何度も何度も証拠をおもいおこし、反芻をしたと聞きます。
こんな事を書いたのも研究者の素顔が分かるのはラボ内だけです。当たり前のことです。
しかし、捏造者を発見してかれらの素顔に触れる機会があった研究者などはあくまでも少数でしょう。
だれもがラボ内の人々の素顔は知っているつもりです。しかし、その好感の持てる研究者が実は捏造者ではないか、と疑いを持ち出し、かつその証拠をみずからつかむにいたる研究者などかつては大変すくなかったものです。
研究のデジタル化と研究者の生活が非常に不安になり、研究不正は非常に増えたと聞きます。
不正自体が極めて粗雑になってきたこともあるのかもしれません。ある大学では文系学生のほぼ全部がコピペレポートの経験者とか聞いたことあります。
いまや研究の世界で、推定では二桁場合によっては三桁増えたと主張する人たちもいます。
わたくしには分かりません。
ただ現今の研究不正の大半が研究室外でネット上で発見されていることが特徴です。
論文自体からは、不正者の素顔はわからずに、不正の動かせない証拠が発見されるというケースが大半となりました。
それで多くの研究者や関係者は不正者の素顔をおもい浮かべることが難しいのです。経験もありません。
99%の日常生活は普通で1%の残りで研究不正をするようなひとたちは、隠れて飲酒をしたり違法な麻薬やドラッグに接するひとたちとどこか類似しているのかもしれません。場合によって習慣的でなく人生のある時期わずか数回接する程度のひとたちも含まれているのかもしれません。
捏造者の素顔は、人間の多様性そのものであるだろうと、想像します。