もう45年近くも昔、スイスのジュネーブ大学で研究をしていたまだ20代のわたくしに、実験の再現が出来なくなったことがありました。非常に残念で、今でもかなり強く記憶に残っています。
当時わたくしは電子顕微鏡を使って細菌ウイルスの一種T4がつくる構造体の観察をしていました。突然変異体を用いたので、正常なウイルス構造のかわりに長い筒状の構造がよく見えました。ウイルスDNAは入っていないので前駆体のようなものというのが関係研究者のあいだでの理解でした。わたくしは、当時としては斬新な画像解析方法光濾過法を使って、この構造体の詳細に観察する実験をやっていました。
ある時、その筒状構造を含む試験管液を一晩放置して次の日に観察したら筒状の表面に見える格子の模様ががらっと変わっていました。顕微鏡の視野で観察していても歴然と違って見えるのでこれは面白いと思いました。ほとんどの筒状構造がそのようになっていました。
それで沢山の顕微鏡写真を撮ったものです。いつも見えている格子模様をラフと呼んで試験管内でしばしおいてあった時に見えた模様をスムースとよんだものです。
格子の単位が約20%長くなっていてそのおかげで別なタンパク質と思われるものが格子中に加わっているものが小数ながらありました。
わたくしは興奮しました。成熟したウイルスの頭部はスムースの格子に模様によく似ているので、これだ、これこれ、前駆構造が成熟構造になるのを試験管で再現出来たのでは無いかと考えたのです。
最初の数日は頻度が変化こそすれこのスムースな構造は再現出来ました。ラフよりスムースのほうがずっと丈夫で安定なようだったでこれも成熟ウイルスとにていました。
ところが一週間ぐらい経ってから、組織的に実験条件を検討したら、突然というかまったく再現出来なくなりました。まだ若かったものですからこれという対策もなく、しゃかりきにパラメーターを変える実験を繰り返したのですが、やればやるほど駄目でした。非常にがっかりしたものです。理由はわからずじまいでした。
他のプロジェクトを進行させてこの実験は数ヶ月であきらめたものです。試験管内反応実験で最初に味わった挫折でした。
何年かして、この筒状構造体に一部含まれるタンパク質がタンパク質の分解酵素で、その分解酵素によって模様が変わるということがわかってきました。この分解酵素が活性化させるのが難しかったようです。6,7年経ってから筒状構造でなく、ジャイアントウイルスなるものを使うことに京都大学に移ってから成功して成熟反応の一部については詳細な研究ができようになりました。それは誰もがすぐできる再現性の極めて容易な実験でしたので大変喜んだものです。
しかしその初期のラフな筒状構造からのスムースへの試験管内での変換反応は自分の手では再現出来ませんでした。文献をその後追っていないので、ハッキリしたことがわかりません。だれかがある程度成功したとか、しかしそれも誰も再現出来てないとか、そんなことを70年代に聞きましたが分野自体が静かになってしまって、今の状況はわかりません。
何十回もうまくいかない実験は若かったわたくしにはなかなかの失敗感覚が残ったものですが、逆にその実験をやめて方向転換すればすぐ別な問題に夢中になれたものです。
染色体の分離に必須と言われるセパレースと呼ばれるタンパク分解酵素の試験管内の反応も大変難しいようです。タンパク質を純粋にして活性を検出するのが極めて困難なのです。ところが生物種によっては比較的容易ともいわれます。わたくしも一時ラボで試みましたがわれわれの愛用する分裂酵母では実現が難しいようです。タンパク分解酵素はピンキリですがいろんな意味で厄介なものです。
理研のSTAP検証実験の結果についての報告が昨日ありました。小保方氏も丹羽氏も否定的な結論でした。小保方氏は最後まで出来るといっていたのは事実ですが、NHKニュースは随分彼女に対して酷な記者会見画像をこれでもかこれでもかと出していました。彼女の作ったものは万能細胞と言えるようなしろものでは無かったということです。一部緑色には弱く光るようですが。STAP細胞もこれで一段落でしょう。
わたくしも朝日新聞にコメントを求められました。否定面よりは肯定面を言いたかったです。検証実験もわたくしは非常に意義があったと考えています。特別扱いされた研究、検証という特別実験も必要でしょう。われわれの研究はほとんど国費、つまり国民の税金で行われているのですから、わたくしにはこの検証実験は国民にたいしての説明責任でもあったと思います。研究者は研究は密室で行われているので、密室の正義を振りかざす傾向があるのでは。
これで神戸の理研もぜひ一歩前に進んで欲しい。報道も全体としてこの長丁場とてもよくやったとおもっています。日本人の生命科学への理解や関心は増したし、また表だけからだけではみえない裏につながるものもわかったでしょう。飽きずにいろいろな角度からの報道を希望したいです。
またこのような状況でも、それでもなおかつ生命科学研究の世界で一旗揚げたいと希望する若者がぜひいて欲しいとおもいます。
後日談ですが、結局どこにも再現失敗の実験は報告できずででした。しかし撮った何百という電子顕微鏡の写真の濾過像はあまりに美しく見事で、筒状構造の一つとして生理的意義も何も記述せずにこのようなスムースな構造を観察できることもあると論文の中でごく短い記述をしたものです。
でもこの不完全燃焼感は後の研究の原動力にもなったような気がします。あのような興奮をもう一度味わいたいという気持ちが研究に自分を駆り立てたものなのです。