阪神淡路大震災、20周年

阪神淡路大震災が起きてから20年経ちました。
なんべんかこのブログでもとりあげましたが、東北大震災という出来事もあり、多くの人々があの神戸での大災害に心を寄せているでしょう、わたくしもまたなにか書きたくなりました。
20年前、わたくしまだ50代前半でした。朝の5時47分か46分にわたくしの家でも激しい揺れがありました。人生で一番きつい揺れ、これが地震を感じた最初の意識で、ベッド脇の洋服タンスがわたくしの足に倒れてこないようにタンスを押さえたのが最初の行動でした。飼い猫がおしっこをもらしながら部屋から廊下のほうに逃げていくのをみて、その後、階下から食器の割れる音がしばらく続きました。
家族の無事、しばらくしてラボで学位論文書きで寝泊まりしていたK君からラボでは特に被害はないという連絡がありました。地震災害訓練の豊かな静岡出身のK君だからこそできる的確な報告でした。
その日の朝はフランスのストラスブールに向けての旅行日でした。関空に朝から向かうつもりでしたが、もちろん電車も止まり、空港の橋も渡れないそうで、それでもスーツケーを持ち午前中にとりあえず京都まで行きました。被害の様子はなかなか分からないで、その恐ろしいほどの被害の甚大さは時間と共に明らかになったのですが、しばらくはわからずわたくしはフランスへいかに行くべきか、HFSPOという国際組織の審査委員会での義務を果たしたい、あんなに沢山の候補研究申請書を読んだのでなんとかしたいと京大の研究室でニュースを聞きながら考えていました。
被害は時と共に甚大であり、死者は少ないかもしれないが、倒壊した建造物は非常に多いというニュースがありました。後の大火災で倒壊した家の中で逃げられなかった多くの方々が命を落としたとしりました。いまでもそのことを思うと胸が苦しくなります。

京阪電車で大阪に向かい、そのあと南海電車を使えば空港に行けるのではないかと思い、淀屋橋までいけました。そのあとはたぶんJRで関空に行ったのだと思います。夕方にたどり着きました。
なんとわたくしの乗ろうとした午前に出るはずの飛行機はまだ空港にいたのですが、少し前に滑走路向かって動き出したとのこと。惜しくも乗れずでしかたなく泉佐野のちいさなビジネスホテルに一泊し翌朝ストラスブールに向かいました。飛行機からは神戸市は煙でほとんど見えない状況でした。
神戸市の状況の正確な把握は随分時間が経ってからで、多くの人々がなにか出来ないものかと被害地に向かったものです。日本での本格的なボランティア活動の元年とも言われていると聞きます。
東北大震災では20年前の阪神淡路震災で経験を積んだ沢山の人々が東北に向かったと聞きます。
わたくしもその後なんどか出かけて災害の深甚さと徐々に回復していく町や人々の様子を見てきました。後に震源地の近くも訪問することもできて、乏しい知識と体験ながらも自分なりの考えをつくることが可能になりました。当初はいろいろな悲劇的な出来事に対しての責任問題なども論じられましたが、そのうち日本人らしく人を責めるよりもともあれ復興に向かう、学ぶことはみな沢山学んだので次に生かしてという考えが強くなったとおもうのです。
それで良かったのかどうかは分かりませんが、東北の大震災についても同じような経過をたどっているような気がします。

20年がたち、わたくしもしっかり年をとってしまいました。
当時のラボメンバーいまはどうしているのだろうと考えたくても当時のラボメンバーがひとりずつ明瞭に思い出せません。
いまスコットランドでラボを持っているS君は両親がおられる自宅のある宝塚にもどるのに非常に苦労したと印象的に聞いたのを思い出しました。
多くが学生だった若者で関西出身者が多かったのですが、きょうあたりどんな風にかんがえているか、会ってみて話してみたいなあ、恩納村の家から海の遠くを見ながら、強く思いました。

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