5年間、10年間の感覚

10年という感覚は20台や30台の年齢の頃には非常に長いでしょうが、高齢になれば長さの実感が段々なくなるのかもしれません。時間の物差しがだんだん鈍くなってくるのです。それと時間の記憶がだんだんあやふやになってくるのです。それで10年、すぐたってしまうなんていう言葉がついでてしまいます。
一年間の記憶感がよわくなるのが原因なのでしょう。
わたくしも去年だったか一昨年だったのか、ハッキリ思い出せないことが増えて来ています。
記憶につよく刻むためには手で書くのが一番いいようです。キーボードで書くのはどうも刻まれにくいようです。
ただわたくしには4人の孫達がいまして、具合がいいことに上の二人と下の二人が同学年ずつ、かつ男女なのです。生きた時間経過と成長のバロメータとして会うたびに時の実在を強く感じます。

子達の成長を見ていると、当たり前でしょうが5年や10年の時間経過がどんなに大きいか、強く感じざるをえません。
上の二人は10才になっていますから、このブログを書き出したのは二人が生まれてすぐでした。
下の二人は、いま5才のはずですから、ちょうどいい具合に、10年を二つに分けています。
5才の女の子の孫のほうはもうだいぶ前からしっかりした感じだったのですが、男の子は3月生まれのこともありついこの間までは赤ちゃん的な幼児という思い込み感が強かったのですが、このあいだ妻と孫達の交信を見ていますと、しっかりした少年の顔だちに近づきつつあるのにびっくりしました。
たしか昔の日本、元服は5才(数え?)だったのか。そうなら、しっかりした顔立ちになったでしょう。
この子達にとってのゼロ才からの5年間、10年間の成長とわたくしにとっての5年間、10年間の持つ意味は何が似ていて何が違うのか、すぐ分かるようで実はわからないのです。

成長はいいものだという感覚は、無成長・静止があまりいいものではないということと裏腹だとするまずいのでしょう。
無成長・静止も素晴らしいとおもいます。ただ無成長・静止も新陳代謝はしているのでしょう。
大木がもうほとんど大きくならなくても毎年新芽を出し、新緑の葉を沢山作り無数の小枝を作るのが成長後の人生なら、はやくそういう時期になりたいと思う人も増えるのでは。
どんなに高齢になっても体の一部では成長と細胞の増殖が起こっているようです。高齢者の新規の記憶がどのように生み出され刻みこまれるのか、そろそろ大きな新発見がでてきてもいいのではないでしょうか。

そういえばこの数日、記憶に残るニュースが二つほどありました。
線虫を使ってがん診断ができるらしい。
土星の衛星の中に生命がいてもおかしくない環境があるらしい。

科学の進歩はとまることがないと実感します。

和光市理研の吉田稔さんが学士院受賞のニュースを見ました。彼がまだまだ学生的な感じが抜けてない時期からそばで見ていた一人としてとても嬉しかったでした。

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