戦争と憲法を考える

連休、大津に戻り比良の家にある畑仕事で大忙しです。
でも二人でやる作業は思いの外にはかどるもので、土仕事はおわり苗なども大半は植えて、後残す大きな作業はしたの畑の草刈りと鹿よけネットを張ることとその後に里芋を植えることとなりました。

天気もよく温度もすこし暑めですがでも山からの風がすずしく気分爽快です。
明日には子供や孫達もきます。だんだん高学年ともなるとみんな一緒は無理でそれなりの学外活動もあり、これもまた子供の成長にともなう当然の変化です。

安倍首相の米国議会での演説を聞きました。というかテレビで見ました。終わった時間は深夜一時すぎでした。それなりの感慨でみました。
わたくしはやはり米国議会での日本にとっての歴史的な出来事だったという一部識者の意見に近いものを感じています。報道が真っ先に慰安婦謝罪が無かったなどとかき立てるというかついつい書いてしまうという国民を代表する首相に対するねぎらいの気持ちがないことに、本当に不幸なことだとついつい嘆息が出てしまいます。
しかし演説そのものに非常に満足したわけではありません。
だいたい日本の世界の中での立ち位置を考えたら、だれが首相をやっても容易なはずがありません。そもそも米国議会で演説する資格を獲得した安倍首相の政権運営の巧みさを感じます。偉いもんだといいたくなります。中曽根首相も小泉首相も出来なかったことです。

二度目の政権スタートでの安倍首相は「極右」というレッテルを近隣諸国において張られて、オバマ大統領もそれに影響されたのかかなりぎこちない関係しか無かったはずです。
安倍首相の演説は日本語も英語も完全版が読めるようですので、すこし時間をおいて読むことにたぶんよりよい意義があるのでしょう。
首相は米国国民と米国議会人を相手にしゃべったことをまず念頭に置く必要があります。
ただわたくしも人のことは言える資格ありませんが、ひと言首相の英語について言わせてもらうと、どうも子音の発音とイントネーションが聞きづらく感じました。流ちょうなので惜しいです。

さて安定した安倍政権がいよいよ悲願の憲法改正に着手しようとしています。準備は着々と進んでいるようです。改正そのものには国民の多くは賛成がおおいようです。
現憲法が米軍占領下において作られたものであるという歴史的事実は動かしがたいですから、その一点だけでも、自前の憲法を作りたいという希望は当然だし、当然のことでしょう。近隣国の韓国や中国から沢山の意見やノイズがでるでしょうが、それも当然でしょう。
この当然の憲法の作り直しがなぜ戦後70年もかかってもなかなか国民の総意として認められないのか。
とりあえず自前の憲法を持つべきだ、現行の憲法とそっくりでもいいからとりあえず今いる国民が選定した憲法を自前で持つべきだ、という意見に私はもちろん賛成です。
ただそういう意見もついこのあいだまでは発すること自体なかなか大変だったという事情がありました。
わたくしも生まれて4才までは戦争前夜と戦争まっただ中を過ごし、戦後も7年間米軍の占領下にあった時代を過ごしたわけで憲法が自前のもので無い状態でここまで続いたことを最大の屈辱と感じない日本人のノー天気さを愛したいという気持ちと同族嫌悪の感で相半ばする気持ちがあります。

憲法改正派に天佑の幸運は尖閣島事件以後中国が激しい日本憎悪に転じたことで、いまはだいぶ沈静化したものの、この時以来中国に対する日本人の7、8割は潜在的強硬派になってしまったともいえるでしょうか。沖縄にとっての不幸はこの時いらい本土では沖縄がどんなに叫んでも聞こえないふりをする人々が増えてしまいました。沖縄の怒りが沈潜をへて爆発をするかどうか、「爆発」に向けて現知事が行動をしていることは明らかです。
わたくしは沖縄の生活が長くなるにつれ、戦争と憲法を沖縄の目と頭で考える時間も長くなりました。週末にはコンビニに出かけて地元紙をけっこうじっくり読みます。全国紙はネットで十分です。

そろそろ比良のほうに向かう時間なのでここで一度中途休憩にします。下の写真は安倍首相の米国議会での演説時にわたくしのカメラで一枚撮ったものです。積極的平和主義を説明している時のものです。

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