研究不正をさせないためのラボの条件

とうとう年末になりました。この1年長かったというのが素直な印象でした。
最近はさっぱり研究不正について書くことが無くなりました。
考えてないのではなく、色々想起することはあるのですが、書いて楽しいことはなにもないので。
いろんなひと達と話したりするのですが、どれも複雑な側面が多すぎて一刀両断に論じるには口が重すぎます。

小保方氏事件というかSTAP細胞事件というか、時間が経つにつれて、研究不正行為そのものについての理解が深まったことはないようです。
ただしハッキリしたことはSTAP細胞があるということを示す証拠はない。
なぜあのような論文がでてしまったかについてはおおよその説明があるようですが、確たる説明はない。
小保方氏がどのようなことをしたのかも確たる説明はなされていません。小保方氏がどのような研究不正をしたのか、ここが肝心なところですが、論文などにある不正な画像やデータなどは歴然としていますが、関係研究者を巻き込んだかたちでどのように進行していったのか、よくわかる説明がなされたことはないでしょう。もちろん小保方氏は歴然としたデータ画像における不正については謝罪していますが、それ以外についてはSTAPはできましたと言い続けています。

わたくしは個人的には、このできごとに関連した誰かを責めたいという気持ちになかなかなりません。
誰かが首魁であるとか誰かがほとんどすべての責任を負うべきというふうになれば分かり易いのですが、そういうものではない。誰かが悪いと言えると楽ですが、そういうものではないようです。
STAP細胞という大発見がなされたのではないかと論文発表がなされた時点から色々なできごとが派生してきましたが、ここの派生的社会事象(記者会見、テレビ番組など)について誰かが責任をとることは困難でしょう。
科学発見ドラマとしては、たとえ一瞬でも極上の発見といわれたものが虚偽の論文発表ということになったわけですから、関係者にとっては塗炭の苦しみを生み出したわけです。
笹井さんの自死という悲劇としかいいようのないできごともあり、全体のできごとからなにか将来に向かってポジティブなことをハッキリいうにはまだ時間がかかるとおもいます。
もしも時間がかかって起きるのだとしたら、神戸理研センターに在籍していた若い研究者の中から強靱な精神をもった研究者が輩出することを祈らざるを得ません。またアドミニストレーションレベルで関わった人達からも、今後益々複雑化する研究不正について、この経験を前向きに捕らえる人達が生まれることも願いたいです。

わたくしなどは最初に実際に経験した研究不正が30年も前になります。関係研究者の人柄は今からいえば古典的人間像というのでしょうか、成功者へむけてのインパルスが非常に強い。「犯行的には」単独であるといってもよく、たとえ本人が最後まで認めなくても周囲の暗黙の理解は、目の前に来ている成功のためにはデータ捏造がもっとも手っ取り早い、というものでした。
こういう理解では今起きている色々な研究不正に向かっていけるとはまったく思いません。この一年、いろいろな話を聞くに付け、わたくしのような時代遅れの人間は発言しないのがベストかとおもうばかりです。
ただなかなか外に向かっては聞こえない話を聞く立場でもあるので、以下にごく手短に今後のヒントを書いておきます。
やはり研究不正のできごとの中に責められるべき人物はいる。ただし不正は高度に複雑化している。
ラボの主宰者の中に巧妙に自分の研究者としての成功(研究費獲得、名声)に向かってラボメンバーを利用して公正でない研究をさせている人々がいるらしい。
研究結果ががある方向に向かったもので無ければ受け付けないので、ラボメンバーがボスの意向に沿った結果がでるまで何度も実験を繰り返す。ボスの意向は実際には論文のレフェリーの意見であることも多く、研究不正がレフェリーのコメントによって誘導されうるという意見は真実味がある。
有名ジャーナルに論文がでれば研究費額も学会での発言権ステータスも飛躍的に高まり、また筆頭著者の就職もより容易になる、こういうレベルでの欲求から多くの研究不正が起きうる。
そのためにラボヘッドとラボメンバーの関係が変質してきて、ラボメンバーはヘッドが何を期待しているのか、何を希望しているのか非常に気を使うようになる。
研究不正行為は非常に広汎であり、いま明らかになっているのは稚拙な技術しか無いようなケースだけだという、意見が本当なら非常に困った時代に我々は生きていることになるのかもしれません。
結局、至近距離で一緒に働くラボメンバーの人達が何を感じ何を発言するかも問われる時代に入ってきているようです。
非常に嫌な考えですが、研究者としての成功者は注意深く観察されるという研究社会にならざるを得ない、またラボヘッドとメンバーの関係についても非常に注意深い外部および内部からの眼があるという、文字通り「監視社会」化が進行するのかもしれません。
悪貨は良貨を駆逐するという言葉を思い出します。
しかし日本の研究室が総じて非常によくなるのにはこういう関門を通過して、より成熟した人間関係が出来てくればいいのだとおもいます。
わたくしとしては根本的には非常に楽観的です。というかそう思うことがベストだと思うのです。
我々の研究をサポートする納税者や研究費を直接だす機関の方々には厳しくも、暖かい気持ちで見守りかつ助言をして欲しいです。これ変じゃない、という世間の眼がラボ内にもあるといいのですね。

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