きょうは淡路神戸大地震から21年目ということです。20年も前のある日のことを思い出せといわれて、この日だけというか鮮烈に記憶がよみがえります。
なんべんかこのブログでも書いたので、同じようなことを書くと思うのですが、でもわたくしの記憶はだんだん怪しくなるので、昔のブログ記事を読み返さずにあの日何があったのか書いて見たいです。
地震の揺れがあって、2,3三回目でこれほどの大地震、自分の生涯で最大だなと思いました。慌てて目を開けてベッドの傍にある洋服ダンスが自分に向かって倒れてきたら足で止めようと身構えたものでした。家猫が布団の上で寝ていたのがあわててベッドから飛び降りてよろよろと部屋を出ようとしながら、おしっこと漏らしてそのあたりに散らしながらだったのが記憶に残ります。
その頃は階下からガチャン、ガチャンといやな音がして、なにかの壊れる音、実際には観音開きの食器ダンスが開いて大切にしてあったお皿や陶器の多くが割れてしましました。
震源地から遙か遠くの大津市坂本近くの町でもこうでした。
我に返るとすぐ電話がありました。学位論文を書いていたK君が研究室から、すこし割れたりしたものはあったが、研究室の被害はほとんど無いと。助教授のNさんからもK君からの情報でラボは大丈夫だと言うことでした。これでほっとして、我が家の問題とそもそもこの日に関空に出かけてフランスへいく旅程はどうなるのだという意識がよみがえりました。
わたくしその頃、ストラスブールにあるHFSPOという国際機関の研究グラントや奨学金の審査委員をしていたので、数日の会合のために行く予定でぎりぎりの日程ですから、いけるものなら行きたかったのでした。
そういうことが脳裏にありながら階下におりると、やはりガラスや陶器がかなり割れていました。この時、次男が家にいたはずですが、どうもあまり記憶がありません。二人の子供は京都市内に下宿していて、無事とのこと。ひとりは地震なんかあったの?という調子でした。
テレビをつけると、しばらくの間は報道は鈍くて、朝5時47分という早朝だったこともあり、なにがあったのか被害はどうなのだという疑問に直ちに答えていないように思いました。
地震による死者の多くが家屋の倒壊、その後の火災によるもので、なおかつ甚大な被害が狭いベルト状の地域で東西に長くあったことも原因して多数のひとびとが災害の酷い地域に集中して出かけたこともあり、救急の消防自動車や救急車の移動が困難を来したということを思い出します。火災もある程度時間が経ってから多数の地域で発生し、その頃になって高速道路の倒壊や、新幹線の停止などが段々判明しとんでもないウルトラ級の大地震大災害が起きつつあることが分かって来たのでした。人命が多数失われるという予測は当初どこまであったのか。そもそも知事や市長さんがどこにいるのか分からないという地域が相当あったようでした。
次々にわかる被害で、わたくしは自分はどうするべきか、関空の被害は?関空は機能しているのか?そもそも関空に大津から行けるのか、などと断続的に考えながら目の前のテレビ画面を見ていたものでした。朝何時頃にいろいろなことが分かって来たのか経緯は実際の時間と対応しませんが、でも朝早い時期に多数の家屋の倒壊、交通幹線のマヒ、甚大な被害があることは分かっていました。
結局この日はお昼頃にラボに着くことができて、その後関空は機能しているらしいという情報を得て、妻にスーツケースを大学まで持ってきてもらって、京阪線経由で関空に夕方着いたのですが、乗る飛行機は6時間遅れで出発しようとしててわたくしの目の前を離陸していきました。
結局泉佐野のホテルで一泊して、翌朝フランスに向かいました。
飛行機の窓から見た、広い地域で燃える神戸の姿と空高く見える多数の煙は忘れられません。
研究室の院生だったかもうポスドクだったかS君は実家が宝塚にあり、ご両親の様子を見るために車で出かけて正味8時間とか10時間かかって無事を確認したということを後で聞きました。多数のひとびとが肉親の安否情報を求めて必死に動いたものでした。電話も通じなかったら直接行くという方法しかないのでした。
写真はその時に割れた備前焼を妻が時間をかけて復元したものです。