富沢純一先生がお亡くなりになったとの報を知りました。
先生にはお世話になりっぱなしでした。
特に学会を発展させるための欧文の学会誌(ジャーナル)が必要だとの、先生の信念と情熱に頼りっきり、その結果とうとうGenes to Cellsという立派なジャーナルの創刊にこぎ着けました。先生が初代編集長をやり多くの編集委員も参加して今日に至っています。わたくしは先生のあとの編集長を拝命しておりますが、学会ジャーナルには苦しい時期ともかさなり投稿数がだんだん減ってくる苦しい時期がありました。最近明るいきざしも現れて、今月はとうとう先生の時代の最盛期の投稿数に近づきつつあるのではと喜んでいた矢先の訃報でした。
君、そんなので喜んじゃ駄目だよと言われそうです。でも報告したかったです。
息の長いジャーナルになるための試行錯誤の時を過ごしたような気がします。
富沢先生をはじめて見たというか、遠くから拝見して、ひとことふたこと言葉を交わさせていただいたのはもう50年も前です。わたくしが大学院を休んだというか止めて欧州に留学する直前でした。富沢先生は同期だったOさんの先生だったので、渡航まえにOさんに会いに行ったときにOさんがわたくしの留学先を紹介してくれたのですが、ああそう、という二言だったとおもいます。
怖そうな先生だなあという印象が強く残りました。実際には先生は気さくな方だというのはそれから何十年か先には分かったのですが、幼児の原体験は残っていて、遠くから拝謁するという感がいつまでも残りました。
いうまでもなく、先生は分子遺伝学・分子生物学の大泰斗でした。
学会で先生の議論を聞けるというのが初期の日本分子生物学会の最大のアトラクションでした。先生の議論は厳しいものだったですが、でも議論はこういう風にもやれるのか、という強い印象を大学院生だったわたくしなどは思ったものです。
先生は若い研究者の育成にも取り組んで育英資金を提供しています。
先生の大きな思想と人柄は時がたつにつれより強く感じられるようになるでしょう。