きょうはこれからわたくしがかつて30年ちかくも在籍していた京大理学研究科の50周年式典にいきます。時計台のホールでシンポジウムもあるようです。
わたくし昭和46年ですから1971年8月に、生物物理教室の教員として採用されました。非常に喜んで、たしか5月くらいから米国から戻って京都で住み始めました。独身だったので身も軽くスーツケース一つで引っ越したようなぐあいです。46年も前で教室もできたのほやほや、建物もあたらしかった。
希望に満ちて新緑のあざやかな東山をみつつ、下宿から歩いて10分農学部グラウンドの傍を通ったのをよく覚えてます。
当時なにが特徴だったのか。生物物理といっても岡田節人先生のように動物発生とか小関さんのように分子遺伝とか学問分野にこだわらない、面白ければいいというのが特徴でしたか。理論物理の寺本英先生の考えが濃厚にあったような気がします。かれがある意味ドンだったのかもしれません。
コントワールという喫茶店があってちょっと年配の先生がおいでになって色々話をする。後から思うとゴシップが多いのですが若者には面白くてゴシップがこんなに面白いのかとは岡田さんから学びました。それから、岡田さんは麻雀がお好きでよくさそわれました。小関さんも好きでしたが、寺本さんは「女波」というお酒を飲む店があってほぼ毎日のように夕方には出勤していなくなりましたのでつきあいはもっぱらそっちに行かないとできませんでしたが。
麻雀をやる時は、後に奈良先端の学長をやった安田国雄さんが岡田さんの指示でしょうか誘いにくるのですが、安田さんは決して遊ぼうとは言わないでドアの向こうでチラッと姿を見せるだけです。ですからこちらも積極意欲をしめさねばならずで、できるときは、「やっさん、やりますよ」と大声で返事します。
そうすると彼はなにも返事せずに姿を消すのですが、それで商談成立で夜は遊べるので急に一生懸命働き出したりして。おもえばよくあそびよく学べでした。女波はちょっと若手には高級でしたので、本蔵(もとくら)というおばちゃんの店によく行ったものでした。雀荘のなまえはたしかさくらと言ったようなきがします。
あの頃、いったいいつ研究の話をしたのか覚えていません。実験のアイデアなどが上手くいったときにひと言、うまくいったとい言うくらいでした。
それでなんか気持ちが十分通じるような時代だったし、人間関係もそうだったと思います。後で時間をかけて何がうまくいったのか知る機会がたっぷりありました。
遊びでよくつきあっていたから、ちょっとした言葉のやりとりでかなり深く互いの学問の状況も理解しあえる。そんな関係があったのでした。
いまから40年以上前の30代の頃のはなしです。
当時は学問は面白ければいい、それにつきていたような気がします。
それと、遊びの中の学問を真剣にやる、真剣ならあそびの中の学問でいいじゃないか、そんな気持ちでした。
そういうのが当時の学問のエッセンスでした。