きょうは6月23日、沖縄慰霊の日です。
沖縄戦がどれだけ悲惨であったかは住んでみないとなかなかわかりません。また、住んでもなかなかわかるものでもありません。相当な想像力が必要だし、戦争体験者の証言をしることも必要でしょう。
でも長いこと住むと折々の体験から沖縄の戦争はどんなものであったのか段々見えてきます。
今年は読谷村にある戦争末期住民の集団自決の場のひとつだったチリチリガマを少年達が荒らし壊した事件があり、県民に大きな衝撃を与えました。少年達はその場所がどういう場所であるか知らなかったのでした。でもこの事件を契機に若いひとたちも戦争がどういうものであったのか伝わったようでした。
沖縄戦では20万人が亡くなりました。地上戦での死者が非常に多い。逃げまどった住民達が逃げ場を失い銃弾でもしくは自死した経過を考えれば、沖縄での民間戦死者を一瞬でも考えれば厳粛な気持になるのは当然でしょう。
住民の4人に一人が亡くなったと聞きます。
民間人を白兵戦の中に放置して多数を死に至らしめたことを考えれば、日本の軍事組織の犯した歴史上の大罪としていつまでも記憶されていかざるを得ないのでしょう。
沖縄への慰霊に心を砕いた昭和天皇が、ついに沖縄慰霊の旅に出られなかったのも致し方ないと思うのです。
平成天皇と皇后はとくに沖縄慰霊に心を砕きました。それでも天皇制があるかぎり、昭和の時代の天皇制下の日本がどうしてあのような国を作ってしまったのか、二つの原爆の投下と沖縄戦とともに日本の歴史が続く限り常に反芻する必要があるのでしょう。
わたくしも沖縄に住んだおかげで、明治以降の日本の国としての軌跡を沖縄からの視点でも考える事が出来てより深く理解したいとい気持が強まりました。
今月は石垣から西表に行く機会があって、西表の島でも明治の頃に大変動があったことを知りました。
わたくしは沖縄では当初、縄文時代以前の歴史に関心がありましてそちらのほうにばかり関心がありましたが年を経るにしたがいいろんな事がつながってきて、沖縄全史とでもいえるような関心に拡がってきました。
同時にこれだけ長いこと沖縄で生きて来たいじょうお礼の気持がなにかはっきりしたかたちにできないか、と最近は考えるようになりました。