わたくしは昭和16年4月生まれで昭和20年春の戦争継続中の時期には東京練馬で母と妹の三人で自宅に住んでました。母は小学校教員をしていました。父は海軍の兵士として軍隊におりましたが、運よく戦争終了時には傷病兵としてフィリピンの海戦場から広島の呉までレイテの戦場から戦艦ごと呉の軍病院に連れてこられて命拾いをしてます。でも復員は戦後ですから、母と乳児の妹とわたくしの3人だけで東京の留守宅にいたのです。親戚も全然東京にはいなかったですから、母はさぞかし心細かったと思います。私は幼児とはいえ戦争がおきていることくらいは分かっていて、たぶん恐怖のどん底の日々を送ってたのでしょう。敗戦の直前に栃木まで父の実家にたぶん叔父に連れられて疎開をしましたが、わたくしの臆病さは疎開先では有名で語りぐさだったようです。遠くの空にに米軍爆撃機が見えてくるとわたくしは一人で防空壕までダッシュして一番奥でぶるぶる震えてたとよく言われました(これは記憶があります)。
そんなこんなで断片的な記憶だけでも戦争末期から終戦までにあったわたくしの戦争体験は微々たるものとはいえ、脳みその奥底で掻き混ぜられてたぶん怪しげな記憶ネットワークと実体験の記憶から来る奇妙な臨場感でボンヤリした記憶の画像として蘇って来たような気がするのです。所詮は怪しい記憶ですがでもだれか共通の記憶を持ってるはずの人達と実際に喋れればいいのだがと最近しきりにおもいます。
もう少しここのところ書きたいのですがちょっと今日はここまでにします。
今の日本や世界、なんかやたらにこの幼児時代にわたくしの保持したボンヤリした記憶が刺激されてるのです。やたらに実在感のある出来事として聞こえてきます。
隣家に落ちた焼夷弾の記憶があるのですが、母はもちろん死んでいませんし、疎開してしまった姉にいま聞いてもしかたがないし、あの体験を同じ家で共有した妹は1歳でしたら乳児でした。
空を睨んで記憶を起こそうとしてもどうにもなりません。80年近い昔です。