人に必要な土地

今朝起きたら、体調がおかしいので、家で静養しました。暮れから正月休み、働き過ぎだったので、疲労がたまり、体が警告してくれたのでしょう。それにすこし、風邪気味でした。わたくしがポックリいくと、研究室の若者たちはさぞ困るでしょう(そうでもないかもしれません)から、彼等の危機意識を高めるためにも、わたくしもあの喜劇役者を真似して、もうすぐ危ない、もうすぐ呆けて何を話してもおかしな返事ばかりで理解してくれないと思わせる行動をとろうかな、と布団の中で思いました。それと、依存心をなくすためにも、「もう君のことは知らない」、というわたくしの大好きなあの作家の言葉を、オフイスの壁に貼って、わたくしと議論するときに彼等からしっかり見えるようにしょうかななどと、苦労をかける何人かの若者の顔を思い出しながら、寝ていました。

わたくしにとって始めての外国の地であるスイスのジュネーブで住んだときに、同僚だった大学院生は、「この町で生まれた人間の99%はアパートで生まれ、アパートで死ぬんだ」と言いました。一戸建ての家が町中にはまったくなく、郊外まで行かなければ一軒も無かったからでした。日本の事しかか知らないわたくしが、東京では環状線の中でも小さいのから、大きいのまで一戸建ての家が沢山あったので、ついなんで町中には家が無いんだと、聞いたものでした。あとから思えば、パリやロンドンで、東京や大阪の大都市で見かける一戸建てを見つけることはほとんど不可能でしょう。そのような区分の土地、もっと平たく言えば地面、地べた、を個人が持つことは大都市の市街地では出来ないのでしょう。日本人は小さな家を作る天才民族なのかもしれません。土地が10坪あれば、家を建ててしまうのですね。しかもその権利が東京、大阪の真ん中で保証されているのですね。これ自体、すごい希有な文化だと思います。

一方でそれにならされて、狭い土地にわれわれは慣らされてしまったのではないでしょうか。わたくしは、家を建てるのに75坪くらいの土地があればいいのだが、50坪でもしかたないか、とこの大津の坂本に居を定めたのです。75坪はわたくしが生まれて育った家の土地だからイメージがありました。すぐ傍にあった広大な屋敷林をもった農家が羨ましいとは思いませんでした。しかし、やはり50坪は狭い。一軒、一軒が軒を接して建ってるのはしかたないと言え、まったく美しさに欠けるのですね。これなら、長屋的な家のほうが建て方次第ではずっとよかったに違いありません。

この年になって分かったことは、やはり家で住むのなら300坪は欲しいし、それで丁度いいくらいかなという感想を持つに至りました。300坪なら敷地にちょっとした野菜畑とそれに庭の花と樹木を楽しめるな、というものです。 水田の広さで言うと、1反です。つまり1000平方メートルです。家も平屋で十分です。
これにさらに1反の水田があれば家族5人分のお米が作れると聞きます。さらに1反程度の共有林をもてば森中でいろいろものを作ったり採ったりして楽しめます。昨日話題にした秋山さんよりはだいぶ狭いですが、でも十分です。こういう土地は田舎に行けば沢山あるはずです。不便でなければ値段が高すぎるのでしょうが、でも日本では不便な場所は沢山あります。でも一方で、インターネットも衛星放送もそれに田舎向けのいろいろ便利なもの(例えば浄化槽など)がありますから、人間本来にふさわしい土地を持って生きる日本人が増えれば、そしてそのような人たちがいろいろ発信すれば、単なる地方と都会の違いでなく、別次元での違いが見えてくるでしょう。
すこし前に話題にした、「下流社会」についても、まったく違った層の人々が出てくるのではないか、こんな事を考えます。過疎の世界では土地など、ただみたいなものなのですから、そこで必要なのは自然と共存する体力と気力です。それに賢明さも必要とするのですから、一番必要なのは体験に根ざした、智力ですか。

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