今日のポスターセッションで、ある若い人の研究内容を聞いていましたら、終わりに先生のブログ見てます、あのCut物語はよかったですね、という意見を聞けました。わたくしも似たようなものをほんとうはまだまだ書きたいのですが、どうも書かれた人達が喜ぶどころか、浮かぬ顔をされるので、どうもやりにくくその後書く意欲が湧いてきません。ちょっと、残念ですが。
京大生の不祥事件による逮捕、かなりまずい出来事、大学としては大不祥事のようです。女子学生2人の強姦事件、それがもと京大のアメリカンフットボールチーム選手3人が起こしたときくと、チームの名前「ギャングスターズ」はまったく洒落になりません。水野監督はもうやめていたのかと思ったらまだやっていて、談話がでてましたが、最近は成績もパットしないのでうつろにしか聞こえてきません。最近はあまり人気がなく、厳しい訓練も出来ないとか。新聞に出ていたことをここで繰り返してもしかたないのですが、下宿で女性達を一気のみで泥酔させて前後不覚になってからの事件の様なので、あの忌まわしい早稲田大学だかのサークルでの事件をおもいだしました。合意の上だったとか、パーティはこんなものとか、弁解としては文武両道大学体育会として最悪かもしれません。
これを学部生が1万人以上いるのだから、たまにはそういうのも出ると弁解してはいけないと思います。こういう衆をたのんでやる女性暴行事件は伝統的に京大生がやるはずがないとみなされていた類の出来事なので、わたくしは学生も当然ですが、教職員はかなり深刻に受け止めた方がいいと思います。
こういう出来事と結びつけなくてもいいのかもしれませんが、しかし、わたくしが前から憂慮しているのは、京大が研究より教育を重視するとしたことです。これは大きな誤りだと思ってます。なぜなら、教育といってもしょせんアメリカかぶれのカタカナ文字での教育「改革」ですから、学生の勉学意欲が高まるとはとうてい思えません。むしろ低下してるかもしれません。無理矢理勉強させたって、学生には何もいいことありません。あこがれの大学に入っても、空虚感が増えるばかりです。というか功利的な学生が増えるばかりです。教員も教育に時間を取られ、ますます帳尻合わせにせわしくなり、教育の意欲も低下してるのではないでしょうか。
学生と教員の距離がどんどん離れていくような教育重視というのはどうなのでしょうか。
結局、大学では、精神性の高さが一番問題になるのだと思います。特に京大みたいなところでは、研究面での教員の精神性の高さが問われてるのでしょう。それしか、取り柄のない大学だったはずです。
極論的に言えば、経済学部や法学部などではひとりのずば抜けて精神性の高い研究業績をあげた教授がひとりいれば、他はそこそこでもいいのではないでしょうか。そのひとりが、学部全体のレベルをあげる、それが研究のメカニズムなのだと、わたくしは思います。理系でも同じようなものでしょう。ただ、理系は文系ほど厳しい倫理性を問われなくても極めて高い優れた研究成果が上がる点がありうることも事実です。
わたくしが、くりかえし、京大の長期低落を警告しているのも、この研究から教育へのシフトの形骸的な内容と、研究面での精神性の高さを追求する教員が顕著に減っているようにみえること、そういうことを感じているからです。ただ、誤解されると困るのは、わたくしが精神性の高さといってるのは、仙人みたいに俗な欲望を捨てるとかそういうことを意味してるのではまったくありません。
精神性の高さには、ありとあらゆる可能性があるのでして、それを追求するのが大学の使命なのだと思うのです。
人間活動、どんなものでも卑しくも高貴にもおこなうことが出来るのだと思います。