流行語としての格差社会

流行語としての格差社会というのは、どうも収入のちがいとか、職業の安定性とかで格差があるとされてるようです。家柄とか学歴とか人間的能力とかそういうものではなくて、とりあえず収入とその収入がどの程度安定に得られるか、そのあたりできまるようです。
というか、格差の低い方にこの言葉の強調点は向かってるようにみえます。つまり、格差社会の中で自分は低いところにいるとはっきり認識する人達が非常に増えてる、こういうことらしいです。
団塊の世代を中心にほぼ8割が自分は中流と思っていたのに、いまは若者を中心に6割から7割近くが下流社会に属すると感じてるようです。
これが本当なら大変な変化です。
小泉内閣5年後、小泉内閣に批判的な人達が、総括に使い出したようです。
これも流行語ですが、自分は下流社会に属すると感じる人達が増えてきたようです。
小泉内閣の終焉時にこういうかたちで社会の変化を意識するのも決して偶然ではないでしょう。

先週二日間の研究報告会の終わったあとで、鶏肉をたべさせるところで食事をしながら研究室の若者たちとしゃべっていましたが、当然というか予想通りというか、大半が自分は流行語で言うところの下流社会に属するとかんじてるようでした。博士をとっても安定した職が予想されないし、現状も極貧とまではいかないまでも、かつかつの生活をしてるのですから、現今では当然の感覚でしょう。
わたくしたちが若い頃も似たような生活をしていたはずですが、でも社会のなかでのエリートと思いこんでました。格差は何をやってるかで、研究など出来るのは、社会の最上層部と思いこんでましたが。格差が何を意味するのか、随分変わったものです。40年も経てば変わるのは当然でしょうが。でも研究をする若者たちが、エリート感覚はゼロ、下流社会感覚で、でもなおかつやる気をかなりもっているという事実は行政サイドはぜひ理解して欲しいものです。

京都の研究室ではまだ20人近く研究しているのですが、そのなかで常勤的な職についてる人間は一人もいません。わたくしも含めて、一年毎の契約です。なにかあれば、翌年から失職です。給与は日給と時給の二種類がありますが、時給のほうは正直ほんとに低賃金でこころから申し訳ないと思います。しかし、研究費にも限りがありますし。それに時給でしか払えない職もあります。ですから、あげたくても給与が上げられないのです。
日給でも民間なら相当低い方になるのでしょうが、わたくしの研究室はまあ小企業ですから、そのあたりと比較すればまあまあでしょう。
大学院の学生達は親の支援と、月額数万円の支援を研究アシスタント費で研究費から払えますので払ってます。ですから、学術振興会の特別研究員かなにかで月額20万程度で生活している院生が1年でなく2年とか3年間は保証されているので、いちばん安定してるのです。後は、全員世間でいうところのフリーター的な状況で研究しているのが、うそ偽りのないわが研究室の状況です。

こういう下流社会チームで、世界に冠たる学問的成果をあげようとしてるのがわたくしたちの現状です。
まあ心意気です。
世界は当然として、とくに京大内では誰からも指一本指されない業績をあげるのがわたくしの心の中にある目標です。そのあたりは食事会でかなりしつこく若者たちにいいました。かれらもよく分かってくれたみたいです。

下流も上流も、月給の額と安定性で格差が決められるのであれば、われわれは最下位かもしれません。しかし三度の食事ができるうちは、生みだす学問になんのハンディキャップもありません。ないはずです。
金銭的格差も、そこから生ずる上流も下流も研究では関係ないのです。

ただ、フランスあたりでは、まだまだ学生が社会の先端の役割を果たしていますが、日本では研究を目指す若者たちは、気持ちの上でも社会的にも低くみられ、孤立して元気が出にくい環境にいることはあまり知られていません。
このことはぜひ社会の人達にも知って欲しいことです。
武士は食わねど、とかやせ我慢とか、職業に貴賎ありとか、そういうのはいまの時代まったく説得力がないのです。

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