きょうは、研究室のF君が結婚式をあげます。彼は高齢(失礼、とはいっても立派な30代ですが)ですから、まったくめでたいことです。妻と一緒に行きます。女性は結婚式が好きですから、楽しみにしてるようです。新婦にはもう何度かお会いしてるし、似合いの夫婦になるでしょうか。式は教会で、披露パーティのほうは、京都円山公園の中の建物でというのも珍しいし、司会が友人というのも珍しい。古典的なスタイルの披露宴になるのでしょう。英語ブログのほうで、日本の結婚式について、ちょっと書いてみようとおもいます。(追記、やはり今風でした。しかし昔風もうまく混ざって、良かったでした。とそれにかなりすごい体育会系でした。)
今日の本題は、飲酒運転です。わたくしは酒飲みですが、運転しないので、気軽にこのことを書けるのですが、ちょっと世の中過激になりすぎていないか、という率直な感じを持っています。ニュースでは、例えばNTTは飲酒運転が分かったら、懲戒免職というふうになるとかですが、それはいきすぎではないかとおもうのです。酒を飲んで運転するな、までは誰もが賛成でしょうが、もしもたった一回でも運転してるのが分かったら、懲戒免職というのは、わたくしには重すぎると思うのです。職を失うというのは非常に厳しいし、運転者の家族は奈落の底に落ちるでしょう。しかも、公務員や準公務員やキャンペーンをしている記者などはどんなに罰は厳しくてもいい、しかし、民間はまあゆるくていいじゃないか、などという議論はまったく言語同断だとおもうのです。世の中に社会的制裁などという言葉があって、マスコミで大きく出て、家族も親族もつらい思いをしてるのだから、一罰百戒の効果もあったし、という類の考えがあるようですが、これはマスコミがリンチという残虐な刑罰の道具に使われるわけで、こういう罰の与え方になんの心理的痛みを感じない社会はおかしいですね。
もちろん、飲酒運転によって、人身交通事故がおこりその被害者の痛み、苦しみそして怒りは多大なものがあるでしょう。だから、そのような運転者がでないように、社会が大いに努力するのは大切なことです。しかし、極めて厳しい罰がある種の職業の人間だけに向かうのはおかしいし、飲酒運転自体に対して厳しすぎるのも非常によくないと思うのです。
わたくしが気になるのは、飲酒の効果の個人差があまり話題にならないことです。つまり、遺伝的に下戸のひとはお酒を飲むとひどい肉体的苦痛を感じるはずですので、まあ飲酒運転はしないでしょう。遺伝的に下戸なのは人口の5%と聞いてます。顔の赤くなる遺伝体質の人たちは、遺伝的にヘテロなので、とりあえず顔赤と呼ぶとすると、この方達はたぶん人口の30%くらいでしょう。日本国内で何千万人かいるのですから、非常に多いわけです。残りが普通にお酒が飲める人たちです。顔赤の人はゆっくり飲めば人並みに飲めるのが理屈ですが、やはり酩酊はしやすいでしょう、悪酔いもしやすいはずです。お酒の嫌いな人も多いはずですし、お酒を飲むのに練習が必要な人たちでもあります。飲酒からの回復も遅いはずですから気をつける必要があります。ですから、顔赤の人たちは、飲酒運転に格別に注意を払う必要があります。昨夜飲んだアルコールがまだ残ってる二日酔いの可能性も高いでしょう。ですから、もう大丈夫と考えても実際にはそうでないかもしれません。
さらに、このような個人レベルでのDNAでの違いに加えて、加齢の問題もあります。年をとれば、飲酒の効果は強く長い時間効きます。つまり酩酊も激しいし、回復も遅いのです。このような、飲酒に関する遺伝的な差異は東アジアでは通例ですが、欧米ではありませんので、東アジアでは飲酒の効果の個人差には特に敏感になって欲しいものです。規則を作る側もそうですが、飲む個人の側が自分は、普通か顔赤か下戸か分かっていなくはなりません。そのうえ、アルコールを解毒する遺伝子作用以外にも飲酒の効果はいろいろでますので個人差はほかにも色々あるかもしれません。要するにメンデルの法則で親から子に継承されるアルコールを代謝する遺伝子の変異以外については、よく分かってないのです。自らを守るためにも、日本の社会ではまず飲酒について自分のDNAはどうなのかを、しっかり分かることです。
下戸の人が一気のみをすると、高い確率で死亡します。何も分からずに一気のみをすると、20分の1で死に向かう、ロシアンルーレットと同じことになります。顔赤の人でも死ぬかもしれません。もちろん普通だからといって、飲酒で安心できることは何もありません。誰でも知ってるように気が大きくなりますし、運動神経は非常に落ちますから、飲酒運転はとてつもなく危険でしょう。