メタボリックシンドロームと競争的研究資金

研究資金の多くは競争的と呼ばれるものが多くなってきました。その中で、政策誘導型なる研究資金があります。
たぶん、これは霞ヶ関、永田町とそれに追随する研究者が、より役に立つ研究資金ということで、より国民の利益に直結すると考えられる研究テーマをその時代に合うように選択して、研究者の中から優れた研究計画を広く募集しようとする意図のようです。

これにたいして、文部科学省のやっている科学研究費補助金なるものは、研究者が自分の創意工夫で自発的にかんがえたものを申請して、応募するものです。自発的にかんがえたものの中でも国民の利益に直結するものも沢山あり、決して研究者がきままに趣味的なテーマを選んでやっているわけではありません。でも、なにかの政策に誘導されて研究テーマを考えるのでなく、あくまでも研究者が主体的、自主的に考えて申請するものです。

この政策誘導型研究資金なるものをここで正面から批判しようとかそういう趣旨できょうは書き出しているのではなく、その特徴をみずからの体験から記しておきたいと思うのです。

それは、政策誘導型研究費なるものは、その研究成果がもしも世間に評判良く受け止められたときには、それを自分の手柄と思う人が割合おおぜいぶら下がっているのです。これは、通常の研究者自発型とたぶんいちばん違う点かもしれません。自発的な研究計画から、素晴らしい成果が上がれば、研究者だけが褒められるのに対して、この誘導型の場合は、誘導されたわけですから、誘導者がいちばん手柄とおもうかもしれない構図があるのです。
誘導者のなかには、政治家、官僚、研究資金を実際に配る機関の責任者、さらに研究者側の責任者、色んな段階があります。このなかで、霞ヶ関の直下にあるところが色んな意味で、失敗すれば責任を取るという点でも、手柄か失敗かということで、影響がもろに出るので、研究のいろんな側面に口をだしたくなるようです。
政策誘導型の研究の立案段階だけでなく、研究実施段階でも口を出して、ノルマ達成的な言動がでる場合があるかもしれません。
こういう口を出す人が出る人たちが、研究の現場を熟知してればいいのですが、そうでないととんでもないことが起こるかもしれません。たとえば、これまでは全国でもせいぜい10カ所程度の研究グループがやっていた分野が突然政策誘導型の研究の目標になってしまい、10倍とか100倍に匹敵するような研究費が出て、若手研究者が根こそぎそのような分野に相対的な高給条件もあり、いってしまうことがあります。
その政策誘導型プロジェクトが失敗だったりすると目も当てられないことになります。たとえとしては、ゆっくりとしたテンポであるがそれなりに豊かにやってる村落に、とつぜん札びらと幻想をまき散らして、根こそぎ若者を都会に労働者として連れ去るようなものです。たとえてして良かったかどうか分かりませんが、タンパク3000とかいう政策誘導研究にきわめて厳しい批判をしてる研究者達がいますが、その批判の内容を分かりやすくいえば、そんな感じです。結局、最後は研究成果の質が問題になるのですが、そこの点まで突かれてるようです。
政策誘導型の研究費をもらうと、現場での研究の主宰者にはもろに責任がかぶります。とくに、無理して研究の線をどこかでねじ曲げて、研究費をもらうと、のちのちきびしいことが起こります。かつて、環境ホルモンという日本中が総立ちになって大騒ぎした時にあった政策誘導型研究費については、わたくしも思いだしたくないことがあります。

わたくしなどは、そういう問題があっても研究費がなければ、おしまいになってしまう立場ですから、とりあえず贅沢なことはなにもいいませんで、必要なら誘導されるのも致し方ない、それでも研究を続けられるのなら、万々歳という立場です。
自分でいうのもなんですが、いまのわたくしは研究には老練ですし、老獪といってもいいかもしれません。しのぎの筋を見いだすのは研究面でこれまでなんどもやって来ました。しのぎというのは、わたくしが考える研究を理性と良心でおこなうという前提には絶対そむかないで、なおかつ生き続けようということです。

世の中で、メタボリックシンドロームということばが流行っていますね・
実はいま京大でのわたくしの研究室運営の資金は、このメタボリックシンドロームを理解するための研究(基礎的なもののはずです)の政策誘導型の資金をもらっているのだと思います。そこのところは、それほど露骨に政策誘導性は強調されませんので、本当のところは分からないのです。しかし、そう思って研究をしていた方が慌てないですむでしょう。

このあいだの研究費の年次会合の終わった後での懇親会で、わたくしがこの研究費をもらったのは、驚きだと、言ってた人がいました。たぶん、分野がぜんぜん違うのに、けしからんと言った人もいたに違いありません。
しかし、この研究費計画を考えたときに、わたくしにはアイデアが天啓のようにひらめいたのです。わたくしの、染色体の研究はいまこそ、個々の細胞の中で、メタボリズムの観点から見直すべきだと思ったのです、そうすれば研究の新天地が生まれるのではないか。さらにいままでのわたくしの細胞周期や、タンパク質の修飾や分解の研究の経験からいえば、その方向に研究を進めるのが、ベストに違いないと、とこう思ったのです。
はっきりいって、たった一年間で、その天啓は嘘ではなく、真理がわたくしに微笑んでくれた瞬間であったことを示すことができたと思います。
染色体分配はそれが起きる場をメタボリックな環境として考えることにより、新しい発展があるに違いありません。
わたくしのラボの研究は政策誘導をした人たちに受けがいいものになるかどうか知りませんが、まちがいなく、わたくしがこれまで長らく関わってきた研究分野に新しい息吹を示すものであるに違いありません。
30代の頃に、軍事研究をするのを他人がやるのを認めるのも研究の自由の一つだといって顰蹙を買ったものです。心の底では、政策誘導だろうが軍事研究だろうが、どっこい生きているのを示すのが、研究者の心意気だとおもっています。
いまの有力な研究手段の中で、相当のものがベトナム戦争時に開発されたものがかなりあるのです。

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