憲法記念日におもう

5月3日憲法記念日ですね。今の憲法の功績は大戦での敗戦後、日本国内で「平等思想」が行き渡ったことですね。若い人は知らないかもしれませんが、大宅壮一というひとは、「戦後強くなったのは女性と靴下」と喝破しましたが、これもある程度の年齢の人でないと、なにを意味するのか実感をもっては分かりませんね。このひとは恐妻連盟なるものも作ったような記憶があり、皮肉ぽいようですが、女性が強くなるのは基本的に非常に良いことだという考えをひろめたと思います。それにみなさんどう思うでしょうか、「サザエさん」という長谷川町子の漫画、これなんかは戦後の平等思想の具現化だとも思われます。家庭で、男性と女性が対等にものを言い合うというのは、戦前は実際にはあったとしても、毎日新聞漫画で見ることなど、考えられなかったのでしょうから。建て前も実質も平等は浸透したのでした。戦後の憲法の功罪の、功は平等特に男女平等かなとおもうのです。
しかし、昨今の関心は平等社会のはずなのに、実際にはそうでない。女性に対する社会的差別は依然強くあるし、学歴差別もなくなったはずなのに、依然強くある。収入の格差の拡大が大きい。世代間でも、年金や福祉をとっても、大きな差が出るのではないか。社会的弱者に対する、配慮が乏しい。社会的不満はうっ積こそすれ、決してなくなってない。それどころか、増大してるのではないか。サザエさんだって、女性が専業主婦としてしか描かれてないじゃないか、どこが平等なのだ、という意見だってあるでしょう。平等はあんがいバーチャルな存在でしかないのではないかという意見や感覚も現今、強くありそうです。
わたくしは、人間としては古典的な部類に属してまして、自分が実際に経験したことでしか、生きるうえでの「教義」を作らないので、自分自身を律することにおきましてはほぼ完全に「経験的」な人間です。平等は素晴らしいと思うのは、平等を経験したからです。わたくしの限界は自分が経験してないこと、は分からないのです。ただ、経験してないことにつきましては、できるだけ開けた心で対応したい。政治イデオロギーは30年以上前に捨ててます。中国や北朝鮮が人民民主主義としてある種の平等があると言われても、そうなのかもしれないが、経験してないのでわからない。経験から予想すれば、自分の知ってる平等とは大違いだと思われます。インドはカースト制ですから、ひどく不平等のようですが、インド人は決してそうでないと言いますし、その主張には耳を傾けたくなります。またわたくしのわずかなインドと中国での旅行体験からも、インドは中国より明るくて平等的な社会のように感じてしまいます。インドの極貧の人々をいちがいに非常に不幸だと決めつけることも出来ないと思われます。わたくしの経験論からいえば、中国はやっぱり専制国家の政治体制が歴然として残ってるかのようにかんじます。
ちょっと脱線しましたが、わたくしが言いたいのは出来るだけ、良質な体験をするのが、良い人生を送ることだと、思うのです。そういう意味で、今の日本は平等という点でどの程度、良質な体験ができるのでしょうか。
つまり、平等感覚が鋭敏になりすぎて、必要のないレベルまで平等を追求してることはないだろうか。貧富のない社会というのはあり得ないのに、あるべきだと思うとそのひとの人生は大変です。天は才能を平等に与えないのに、平等でないのはけしからんと思い出したら、世の中怒ることばかりです。
しかし、一方で、目の前にある巨大な不平等をまったく気がつかない(もしくは気がつかないふり)でいるのではないか。もしくは気がついても怒る気力もないのではないか。
たとえば、大学での人事です。教授とか研究室の主宰者の決め方に限って考えてみて下さい。なぜT大ではほとんどT大出身者の人事が行われるのでしょうか。K大でもH大でも、自大学の出身者をあたかも優先的にしてるかのような人事が結果として行われるのでしょうか?別に深く考えなくてもこれは本当は不平等的な結果ではないでしょうか?
しかし、そういう声を最近はほとんど聞いたことがありません。本当か嘘か、いまでは若い教授ほど、まず自大学出身者の候補を考えると聞きます。いなければ、他大学出身者を候補に考えだすとか。
自大学出身者による自大学の支配、これは専制的な状況ではないのですか。日本の有力大学の人は、中国の状態は批判しにくいですね。
いったいいつになったら、この税金を使って運営する大学での自大学者による気ままな専制的私物化が終わるのか、ため息が出ます。
憲法記念日なのですこし、我が国の有力大学における原理的状況についての意見を言わせてもらいました。
これには百の反論があるのは承知してます。この30年間耳にたこができるくらい聞いてますから。たまには変わった意見も聞きたいのですが、まあないでしょう。

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