万波誠医師が非常に多くの腎臓移植をてがけてることは、1977年からやってることから見てもあきらかでしょう。ネットで探したのですが、どれくらいの数の移植手術をしたのか記事としてでてるものはありませんでした。たぶん、1000例以上はやってるのでしょう。
知る人ぞ知る存在、手術の技術は日本一、お金には恬淡としていて、しかも逡巡しないので、手術の条件が整えばすぐやってくれる。こういうことで、腎臓移植を強く希望している、人たちにとって、口コミで知られた、駆け込み寺的な場所が四国の愛媛県、宇和島市にあったわけです。それが、腎臓売買事件として、おおきく世間に知られてしまい、その結果、芋づる的にその内情が白日のもとにさらされ、きのうきょうは、病気の腎臓を移植につかったということで、はげしい批判を浴びせられてるようです。でも生体肝移植でやってる、あのドミノ移植とかも病気の肝臓を使ってるのではないでしたか?あれは権威ある大学でやるからいいのでしょうか?そのあたりは、どうなのでしょう。
海外で移植をしようとすると、膨大なお金がかかります。もちろん紹介などの、手づるがなければいけません。それに英語がちんぷんかんぷんではなかなかいけるものではありません。特に米国では、億単位のお金を義捐金で集めて生体腎移植をするべく出かける家族達もいます。そのようなケースは通常、美談として扱われるのです。
また、ひそひそと、アジアの南の方で腎移植手術を格安でやってくれる場所があるとか、そういう話しもあります。逆に腎臓を売って、農地を買ったアジア農民の話しもよく聞くことです。
わたくしは、万波医師の行為を正面から論じるほどの知識も経験もないのですが、彼が四面楚歌に陥ってるのを見ると、日本のマスコミはあまりにも偽善的ではないかと、生来のあまのじゃくがでてきます。やはり弁護したくなります。かれを、抹殺する気はさすがにマスコミにもないでしょうが、でもいまのやりかたは、ほぼそういう方向に向かっています。
また、かれに恩義を感じてるはずの患者さん達はいったいどこに消えてしまったのか、といぶかしく思います。命の恩人くらいに思ってる人は一人もいないのでしょうか。
国内では泥をかぶらない、海外でやるのはしかたがない。これが今の日本の医療の実像なのかもしれません。
医療の中には、ごくごく少数の、1万人に一人のようなケースに当てはまる医療行為があるでしょう。こういうものに、世間の常識を当てはめるのはいけないことです。また、報道する必要があるとは思えません。プライバシーに属することもあるでしょう。
腎臓の病は、透析段階に入るとその時間的拘束は非常なものだと聞きます。そのような人たちの中には、重い病の腎臓でもいいという人がいても、それはその人の自由かもしれません。また、腫瘍になった腎臓はたとえ95%治癒すると医師が言っても、もういらないという患者が居ても、これも不思議ではないでしょう。
医療というのは、医師に守秘義務があることからみても、法的な網の中にあるとはいえ、限りなく私的なものになりうるものです。日本国内で宇和島という、京都でもない、大阪でもない、東京の本郷でもない、信濃町でもない、辺鄙なところで口コミで関係の人たちにのみ知られていた、医療行為が、終末を迎えたら、結局どうなるのでしょう。お金のある人は米国に、ないひとはアジアやアフリカにいくのでしょうか。
わたくしは、万波医師の言い分に十分に耳を傾ける必要があるのではないかと思います。できたら、患者達の意見もぜひ聞きたいものです。この部分を抹殺することは容易ですがそうすれば、きれいでないこと、ややこしいことはすべて外国でやってもらうという、情けないことに日本はなってしまうのだと思います。これは、なにも医療だけではありません、米軍頼みの防衛、核の傘とかそういうものまで含めてみな相似の関係にあると思うのです。
ともあれ、マスコミは日本が窮屈になることがたいへんお好きなようです。法的整備しろ、整備しろの合唱ですが、どうしてそんなにお上に出てきてもらいたいのでしょう。法律がなくても、世の中には常識とか倫理があって、それで動けばいいとおもいます。世の中ある程度の濁りがあってはじめて、あたりまえの世の中になるのではないでしょうか。
高校の必修科目の時も、マスコミはお上が出てきて、きちんとやるといったらひっこみつつあります。たぶん、窮屈な社会のイメージしかないのでしょう。皮肉でなく、正面からそう思います。