おそまきながら、と書いて、そこで「あれこれは」と辞書を見ますと、遅蒔きとは時期に遅れて種をまくことで、物事を遅くなってから始めるときに使うとあります。意識的に種まきの遅れと思いながら使ってませんでしたが、この場合はまさに、おそまきながら遅蒔きのほうれん草と二十日大根の種をまきました、ということでした。
ぎりぎり間に合うといいのですが、キャベツや水菜、菊菜の苗を植えたついでにやりました。これで畑もいっぱいなので、いよいよ農閑期となりました。
雑草取りと追い肥ていどで、あとは間引きも含めた収穫です。ニンジンはいまどんどん取れてますので、ニンジンの種まきのタイミングと食べる頃の時期の感覚もわかってきました。あとは、あちこち庭らしくする作業があります。木の剪定もあるのですが、自己流でやってきた悪い癖があるので、すこし本などをみて正しくやりたいものです。
勤労感謝の日なのに朝からひるまでは、働いて、沖縄のほうにもメールを何通か書きましたが、すぐ返事が返ってくるので、申し訳ないと思いながら、何回か往復して、だいぶ進みました。
この進むというのは、研究社会の外部の人にはなかなかわかりにくい感じでしょうが、データをじっくりなんどもなんども考え抜いて、結局そのデータ自体をどう文章に記述して、どう表現というか解釈を書くか、その作業はなかなか時間がかかるのです。どう記述するか、どう解釈するか、その時点での決定版ができたと思えば、それを進んだと表現します。わたくしの場合は、すくなくとも。このような、作業を毎日毎日繰り返していると、ある時天啓のようになにかすごい感じのもの、新しいアイデアとか新しい実験とかを思いつくのです。
そのような作業もなんども繰り返すのです。あるデータを吟味する、一回目の時はこのように記述してこう解釈したと表現したが、二回目の時は、微妙に変わるのです。論文では投稿してから、レビューアーがいろいろ書いてきて、その対応も結局どうするか、これは一段と難しいのです。迷うというか、データのどの側面を強調するか、データをどう解釈するかで、ずいぶん違います。さらに、類似の研究をどう引用するか、これも容易ではありません。結局、一つの研究成果を論文にする場合、各データを、ひとつずつ綿密に考えて、その時点でベストと思う記述、解釈に決めていくのです。そのうえ、論文というのはかならず一つのお話しを要求されているのですから、そのストリーのどの部分に、該当するのか、わかい学生さんにはよく「起承転結」を例に取って説明するのです。
各データが、その起承転結のどの部分に相当するのか、はめ込んでいくとおのずと足りないものが見えてきます。
わたくしも30台後半に自ら実験をすることはなくなりましたので、学生さんと生のデータを見ることはあっても、自分が出したデータを自分で考え悩むという作業はもう30年弱やってません、それでも現役でいられるのは、データを見て考えることはずっと続けているからです。
しかし、研究は結局聞いてくれる、他人あっての研究ですから、初期の仕事、オリジナルの仕事は、周囲の無理解に泣くことが多いものです。あの研究者こそ、この研究の意義を直ちにわかってもらえるとおもっても、ぜんぜん駄目なことはよくあります。
ところが、顔をみて、データを綿密に説明していろいろな疑問や質問に答えるうちにすこしずつわかってもらえるものです。場合によっては、こんなことを1年くらいかけてやらないと理解してもらえないことがあります。しかし、そういう作業をとおして、研究を進めるというのが、ある意味で世界中共通のルールなのです。
ここをはしよって、自分だけいつも抜け駆けしようとしたら、他の研究者から好かれるはずがありません。
たしかに、日本の研究者の仕事は相対的に理解されにくいのは、この顔をみて説明する機会が少ないからです。わたくしも、なんども若い頃に説明するために、自腹をきって外国の会議に行ったものです。でもそれを逆手に取られて、聞いた話しを先に発表されたり、ひどい目になんどもあいましたが、この作業を止めようと思ったことはまったくありません。
それで、各データをなんどもなんども考えてがっちりした記述と解釈ができあがると、他人と話したときに、自分の意見がぐらぐらすることもないし、逆に相手の言うことに新鮮味や自分の考えていなかった点があれば、一瞬にしてわかるものです。
これが、議論するときの醍醐味です。
碁や将棋の新手なんかも似たような作業から生まれてくるのでしょうか。
明日は、また東京の学術会議です。今回は東大医のTさんが座長をする学術体制の分科会でこれはぜひ出てみなさんと共にいい提言を作り上げたいと思っています。ずいぶん長丁場の会議となりますが、関西からいくものとしてはありがたいことです。