退屈と秘密兵器

わたくしの今の生活の最大の欠点は、退屈する時間がほとんどないことです。
ワーカホリックという面もありますが、いまや自分の時間は大半自分でコントロールできる身分なので、やることがなくてぼんやりすることがありません。SUDOKUなんていうものも出てきてしまって、通勤時間の10分程度の時間も、退屈どころか、時間が足りなくて困ってしまいます。
テレビもまったく見なくてもいたくもかゆくもないし、列車や飛行機に乗っても、パソコンがあったりするので、退屈無聊を味わうことがありません。
もちろん、これは良くないことで、退屈する時間をもつことが、わたくしにとって一番大切なのであることは間違いありません。
退屈したら、何をやるか。
その時、おもうことがとても大切なのですね。
退屈しなければ、何をやろうか考えないわけですから、既存の路線の人生を歩む分にはいいのですが、そうでないことを考えるのなら、退屈することが一番肝要にちがいありません。
わたくしも、こんな風になったのは、40代の半ばからのような気がします。ですから、20年間退屈知らずできたのですが、これがわたくしの過去20年間の最大の反省点のような気がします。
これから、学者稼業が終わるまでに、いちど退屈する時間がたっぷりあるような時期があるのかどうか、たぶんその時はもうおわった時のような気がします。そうだとすると、残念ですが、でもまあ人生は思うようにならないのが、人生ですから。

わたくしの過去を振り返ると、自分の原動力が若い頃の「退屈さ」を味わった時間にあったことは間違いありません。
この若い頃というのは10代、20代の時期ですから、過去といっても振り返るのが難しいくらいの渺々たる過去なのですが、やはり今から考えると、一番価値のあった、時間はあの退屈していた時間だったに違いありません。退屈にまぎれたいろいろトライしたことが、自分の職業的能力のもっとも意味のあるものを作り上げたのにちがいありません。計画せずにやらなかったことが意味があって、計画してやったことはたいした価値はなかったな、と思う次第です。

それで、きょうの話題の前半は終わったのですが、後半の秘密兵器とはなにか。これは放射性物質を飲ませて相手を殺すというような、物騒なことではなくて、自分のやろうとすることの中に、秘密兵器の類の相手が予想もしないようなものなしでやろうとするのはつまらないな、といつもおもいます。
そういうものは、余分の時間が必要なのです。
わたくし、よく聞かれます。
柳田さん、いつブログを書くのです。一つ書くのにどれくらい時間がかかるのですか。

いつも、あいまいに返事をしています。なぜこんなことを始めたのか、それもこれも退屈しのぎに始めたと言えるような、状況があるのではないかと、思わせたいのですね。一方できょうみたいなことを書けば、おかしいと思われるでしょう。
そうです、生きるうえでの秘密兵器言葉がよくないですが、いろいろ手持ちのものを作り上げていないと。そういう、手持ちのものを作り上げるためには、退屈な時間を持たねばならない、なんかおかしな悪循環的なロジックですが、そういうことです。
退屈と、生きるうえでの人には見せない、隠し味の何かをもつことは、密接に結びついているのです。それで、また最初にもどれば、わたくしは本当の退屈さをもういちど味わいたい気持がここのところ大変強くなっています。

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