いわゆる地中海性気候の地域にしばらく住んだことがあるので、11月の末から12月に雨が降ると、そういうところに居るような錯覚がおきます。沖縄はもちろん地中海性気候の地域ではありませんが、今日のように異例に涼しくてそして午後になってから雨が部厚い雲の中からしとしとと降ってくると、昔いたスイスの町のことなどを思いだしてしまいます。
雨が降りそうな日の那覇は、バイク通勤の人が居なくなるので、車の量がどっと増えて、午後4時になると、渋滞が酷いのだそうです。
天気のいい日の朝の那覇は、バイクだらけでベトナムみたいなものですよ、というのは帰路乗ったタクシー運転手さんの言でした。ということは、ベトナムに旅行したことがあるのかな、と思いました。
わたくしもあと10日ほどで台北に行きますが、十数年前の台北は、なんというかまさにバイクの町で信号が青になった瞬間のバイクの立てる轟音がすさまじかったのを思いだします。いまはどうでしょうか、たぶん経済進展があってだいぶうるささは減ってるのでしょうか。
「病気腎移植推進・瀬戸内グループ支援ネット」というこれからたちあがる組織の推進者のかたからメールを頂きました。わたくしのかいたこのブログを評価していただけてるようでした。充分考え抜いて書いたものではないので、書いた内容に失礼もあったかもしれませんが、そのように言っていただいてありがたいことです。ブログの一部を抜粋して使用していただくとのこと、これもなにかの社会的価値があったのか、とおもい一つの励ましと受け止めました。
わたくしはいまの日本、だれでもみんな平等・公平に扱え、というのは原則賛成ですが、いっぽうで、みんなが健康で生活してるのでもなく、千差万別の病気にかかっている人が多いのです。
そこのところも、全員平等といってもそれは、成立しない論理です。
一人ずつ皆ちがって生きる、生きざるをえない、これはわたくしにとって平等、公平をしのぐくらいの重要さです。命について、みかけ不公平のようなことはあるじゃないですか。論より証拠、ひとりずつみんな異なって状態で死ぬじゃないですか。それを、不公平などと言えるはずがありません。
たとえおなじ病気にかかっても、本人の置かれた社会的状況や家族の状況、年齢などで著しく、病者は異なった立場にいるのです。さらに、病者の意識によっても、まったく違ってきます。生と死についての、感覚は一人ずつ、違うので、そこにまつわる最終的な選択肢があるのなら、それは病者にまかせるべきです。
また、主治医となる医師によっても、病者はずいぶん異なった立場になります。これを皆同じ平等公平さでと考えると、まったく現実無視ともなりかねず、また病者の立場も無視した、健康者が病者の世界に乱暴な論理で乱入するような論理になるのだとおもいます。
わたくしの「常識」なるものは、法律違反がなければ、常識的倫理に背くのでなければ、病者が選ぶ選択肢は広ければ広いほどいいのだと思います。その選択肢は、医師が提示できるものでしょう。医師も、また一人一人の患者によって微妙に提示するものが異なるのは当たり前に思います。
医師と病者、何千年も前から存在する関係でしょうから、その本質は既に語り尽くされているのではないでしょうか。