あたたかい日でした。日中に比叡山のほうの家を見てきました。どんどん中の壁や床板がはがれて内側や家の土台がよくわかります。壁も二カ所抜いたので、広々として採光もよく楽しみになってきました。古いものと新しいものが一部まだらになりますが、ほとんど新しいので、一階は様変わりでしょう。
帰ってきて、薪を作りました。廃材をノコギリで切りました。このノコギリはOさんからもらったものですが、Iさんが見て、これは値打ちものですよ、長いこと使われてなんどもなんども目立てに出されています、との話しでした。
家から出たものも最後に燃やして、役にたちました。ただクヌギなどの薪に比べると、あっという間に燃えてしまいます。メリヤスみたいに燃えるといったら、ずいぶん古い言葉が出ましたねと、言われました。
格差社会という言葉が流行ってます。マスコミが最近特に気に入ってるようです。わたくしもいまの時代使っていいし、使うべきだと感じてます。使うと何かが見えるのでしょう。
社会で勤労している人たちのあいだで、まったく同じ仕事をしているのになんでこんなに年収がちがうのだ(3倍も4倍も)という実感が強くなってきたのだと思います。
これまでも日本の社会にはもちろん格差というか差別はありました。男女差別がもっとも激しいものでしょう。どういう言い訳があるにせよ、男女差別はいまも日本の勤労社会の基本にあるのでしょう。女性は家にいて、男は外で働く、というものです。
ついで、近くの例でいえば、定年後に同じ会社に勤めると、年給が非常に下がります。しかし文句などいえません。むしろ恩を売られた感じでしょう。それで月曜から金曜まで朝9時から5時まで働かせられるわけですね。年給は多くの場合、3分の1から、4分の1になるといわれます(聞いたはなしです)。これは、同じ仕事をもしもやってるのなら。年齢差別ではないでしょうか。定年前の年給が高すぎたのだと会社側が言うなら、それは年齢逆差別ともいえるのでしょう。
正社員と派遣、フリーター、大学のようなところでは常勤と非常勤の給与差は非常に大きいです。わたくしも大学の非常勤の給与の低さに心を痛めてきました。しかし、大学でルールを決めるので、給与を個人の裁量で上げることができません。事務職員などの常勤と非常勤の給与の差は、仕事の内容と量を考えたら、信じがたい差です。おおげさに天文学的な金額の差といっても過言ではないでしょう。このような問題を大学の職員組合はほおかむりして長年やって来ました。もう大学の正規職員は公務員ではないのですが、かれらの多くは自分は非常勤とはまったく違う人種だと堅く思っているはずです。いわゆる既得権を獲得したのだから、それを失うことは出来ない、そんな感じでしょう。企業の正社員と派遣とかフリーターの差についてはあまり実際の知識がないのですが、いまの日本は肝要な仕事は派遣まかせになっているとかよく聞きますので、そのあたりが実態なのでしょう。
東京に夜泊まったときに、どこかの店で中年の男性会社員が数人、派遣の若い女性をひとりずつ品評して、浮気したいとか不倫したいとか大声で言ってるのを聞いてて、ひどくおぞましいものを聞いてしまった、と思ったものです。その会話の中で、我が社の美人はみな派遣だよな、とかいってたのが記憶に残りました。いまの会社の一部ってそんなものなのでしょうか。こういう、組織内での激しいまでの格差というか差別がこれほどの大規模で起きるとはだれも思ってなかったのかもしれません。フリーターや非常勤になった人たちも、周りを見渡したらそういう人ばかりという組織はいま非常に増えてるのだそうです。実はわたくしの研究室も全員非常勤なのです。大学の正規職員はひとりもいません。
もうひととつの大規模な格差は、世代差による差別です。これは会社の雇用が新規卒業の学生に限るところが多い、中途の正規採用はすくない、こういう背景からくるもののようです。最近よくいわれる、就職氷河期に卒業した多くの若者たちが現在も相当に困窮している事実です。その数は非常に多いはずです。最近この問題、団塊ジュニアの苦難はこのブログでも触れたことがありますが、日本全体でたぶん数百万人規模で起きていることかもしれません。
いまここで話題にした、男女の差、年齢の差、正規と臨時雇用、特定世代の就職難、は社会が努力したらなんとかなるはずなのです。本来は譲り合いや、職のない人への同情心が社会の個々の人たちのあいだに充分あれば問題はミニマムになっていたはずです。
ですから、格差社会は政府行政の無策と批判するのは自由ですが、社会のなかにある失業や働きたい人たちに職を提供するための、譲り合いとか優しい気持ちを持つことの方がずっと大切だとわたくしは思います。