研究者コミュニティーを考える

麹町の静かなホテルで泊まりました。受験生のせいかそれとも別な理由か定宿はどこも満員でしたので。けさは東京はいい天気ですが、北の方は荒れているとか。西から東に荒れ模様の天気が移動しているのでしょう。

かつて研究不正にかんする出来事は、珍しい事例として受け止められ、なんども童話のように語られたものでした。わたくしたちもそのような逸話を聞き、いくつかの類型に分類し、頭の中にいれてそれぞれを教訓として生きてきたものでした。本当のところ、研究不正が非常に珍しい出来事だったのかは、わかりません。わたくしが大学院当時に客員のようなかたちで夕方になると実験をしに来ていた女性研究者は、ひどい事例をたくさん話してくれました。夜中にいつの間にやら、彼女が長期間かけて調製したサンプルが無くなったこと、透析チューブに針が刺してあったこと、自分の出したデータが知らないうちに誰か別な人の論文に入っていたこと、などなど。彼女は医学系研究室では日本でも外国でもこういうことは頻繁にあると、いってましたが、わたくしは容易に信じることができませんでした。40年以上も前のことです。
ただ、世界的に有名な研究室で評判になった研究成果が、実は研究不正行為(データ捏造)によって作られたものであることが判明したケースは、十分に調査されて、誰もが知ってますから信じざるをえません。
このような「逸話」が、実は氷山の一角であったのか、昔も今も研究における不正行為はひんぱんに横行していたのか。いるのか、わたくしには率直にいってわかりません。わたくしは深刻な研究不正はごく稀な出来事であると、信ずるというか、願望していることは事実です。しかし、「説明責任」というあらたな社会責任がわれわれの研究社会に発生していることは間違いない事実ですから、われわれは、研究不正は社会の中にある「構造的」なものとして考えていく必要があると思います。
たとえとして、適切かどうかはわかりませんが、かつて家庭内から出るゴミについて比較的簡単な仕分けで十分であったものが、最近では地球環境の悪化を防ぐという基本認識に、さらに再生可能というコンセプトがは入り、多岐にわたった仕分けが必要なように、時代の変化によって、研究者の社会も十分な説明責任をいろいろなコミュニティーに対して果たす態勢を作る必要があると思うのです。

こういう観点できょうは理化学研究所での話しを作り上げているのですが、そこでわたくしは、研究者を囲むものに四つの「社会」を考えました。社会よりはカタカナですがコミュニティーを使った方がより意味が伝わりやすいような気もします。コミュニティーは、共同体、集合体とも訳されるでしょうが、その中に、共通の特徴を持つ集団という概念が入っています。
それらの四つは、
研究仲間ー研究者コミュニティ、国際的な広がりのある関係研究者なかま
研究組織・機関(大学、研究所)内でのコミュニティー 
研究費(給与)を出す組織・機関におけるコミュニティー
一般社会のコミュニティー (納税者国民、メディア、家族、地域社会)

研究者はこれら4つのコミュニティーに囲まれて生きているのですが、研究室の主宰者ともなれば、いざというときにはどれに対しても説明責任を問われるわけです。
なぜ家庭を放り出してまでも、地域の義務を果たさないで、研究に邁進する理由を問われれば、説明を家族や隣人にする必要があるうえでも、個々の研究者も大なり小なり、これら四つのコミュニティーとなんらかの深い関係を持たざるをえません。
このなかで、三番目の研究費(給与)を出す組織・機関におけるコミュニティーというのがピンと来ないかたも多いでしょうが、実はそこが問題なのかもしれません。われわれが研究活動をするうえでの源泉ともなる組織体からいま研究者は疎外されているというか、無関係であると思う辺りを変えていかねばならないのでしょうか。このぶぶんは一部のボス研究者や関係者が仕切っている、と思われていますが、われわれはもっとおおらかにこの問題にアプローチする必要があると思います。そうなれば、コミュニティーと発想はそれほど違和感なく受け入れられるのではないでしょうか。
しかし、研究者としては捏造論文などの研究不正は、最初の研究者コミュニティーできちんと対応できることが、研究環境としてはもっとも望ましいと思っております。大学や研究所の理事会などが捏造論文などに対応せざるをえない事態がおきないように、研究者コミュニティーはしっかりしてないといけないのではないか、と思います。ただ、この点は十分に時間をかけて説明する必要性は感じますが。
これから出かけますので、ちょっと時間が無くなり、尻切れトンボですが、きょうはここでやめておきます。よる遅くまで忙しい一日になるようです。

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