研究者にとって職住近接が理想であるといわれています。
喫煙者の多かった40年前では、家を出るときにタバコを吸い出して、吸い終わる頃に研究室にたどり着くのが、いいのだなどと言っていた研究者もおりました。
わたくしも、人生でいちばん近い所に住んでいたスイスのジュネーブの時代では、もっと近い所にいたので、途中のブラゼリでコーヒーなどを飲んで、時間をつぶしていました。寝坊したときなどは、ベッドから出て数分後にたどり着きましたので、人には見せられないような、寝起きのぼーっとした顔でラボに現れて笑われたものでした。
京大に来た当初は、徒歩10分程度のところに住んでましたが、それでもしばらくすると特に冬の寒い時期など、遠くに感じたものですから、贅沢に人間はすぐなるものです。
結婚してから、バスと徒歩の合計で40分くらいのところに住むようになり、子供が三人になってからまた遠くなり電車、バス、徒歩の合計で一時間になってしまいました。
しかし、それ以上遠いところに住んだことはありません。いまも同じ所に住んでるのですが、電車が速くなったり、地下鉄が出来たりで、駅まで車で送ってもらえると、連絡が良いときなど、40分くらいでついてしまうことがあります。
それが、いま自宅のリフォームのため、いっときですが、さらに遠いところに住むことになりました。距離的に自宅より25キロほどさらに遠距離となりました。
まともに通勤すると1時間半はかかってしまいます。しかも、電車が途中駅で特急待ちあわせとかで8分も停車することがあり、タイムスリップしたような感覚におちいります。
ところが、日中一時間に一本速い電車が走っており、これに乗るとびっくりするくらい早く研究室にたどり着きます。
けさも家を出てから歩いてJR駅までいき、それから正確に1時間後に百万遍のバス停にたどり着きました。そこからはラボまで5分もかかりませんので、30分は短縮されます。帰りも同様で速い電車が夜には7時頃にあって、これに乗るとすくなくとも20分は短縮されます。
別にせかせか生きているつもりはなくとも、結局この早い電車に乗れたら乗りたいと思うようになります。夜はなおさらで、本数も少なく、いまの降車駅までいくのが40分に一本のようになりますので、結局もう通勤は行きも帰りもごく限られたそれしかないという、時刻で動くようになってしまいました。
不自由でいやだな、と正直おもいます。
しかし、自由度はさげても、いっぺん味のわかった速い手段があれば結局それに気持がなびいてしまうのですね。
この気持のなびきは、便利さだけではなくて、なにかより合理的なものにいつも参加していたい、というものなのかもしれません。しかし、合理的なものに参加していると、生きる選択肢が少なくなってしまうのですね。寄り道や無駄道の効用は合理性を否定して、自由度をより大切にすることなのでしょう。