関空から沖縄に行く機内でこれを書いて後で投稿します。相変わらず遅れてます。
ジャガー横田さん、出産3カ月で復帰戦とか、立派ですね。年齢のことを言うべきではありませんが、出産にいたるプロセス、素晴らしいストーリーでした。わたくしの非常に好きなタイプの人(女性とはいいません)です。「産後というのは意識していない。リングの上ではジャガー横田。家族のことは忘れて試合に臨む」と力を込めた、とAsahi.comにありました。忘れていたタイプがここにいた、立派だなあと三嘆。このひとのご主人木下医師は好きなタイプの男性です。おしゃべりをしてみたい、ですね。面白くて深みのある人に違いありません。「ジャガーの中でプロレスが占める割合は99%。それを取り上げるのは死ねというのも同然。心配がないと言えばうそだが、華麗にやってくれるでしょう」と言ったそうです。うーん、そのままひと言だけ変えて、自分にあてはめたい、と思いました。劇場型のご夫婦ですが、いつまでも話題を作って欲しいです。
この二日ほどの新聞記事で気になった、言葉は「絶対」でした。
自民党中川幹事長が、本当かどうか閣僚は首相に「絶対服従」すべしと言ったそうです。首相が入室しても私語をかわしていて、立ちもしない人がいるとか。けしからん、という感想だったようです。
これ、とても違和感がありました。
この幹事長さん、風貌、言動ともに「絶対服従」からもっとも遠いように見えるのです。自分のためにしか動かない典型的風貌といったらたいへん失礼なのでしょうか。そういう人が、こんなことを言っても国民はひとりも同感しないでしょう(わたくしの推測ですが)。
ともあれ、「絶対服従」なんて、昔気質の体育会ならありえても、ほんとに言ったのなら、死語をもちいての訓戒など時代錯誤でしょう。これじゃ、安倍内閣の人気が低下するのは当たり前でしょう。それと、官房長官このひともぜんぜん人気でないですね。記憶に残る言動が何もありません。好き嫌いはかなりありそうですが、高市議員くらいにしたら良かったのに、と思います。この奈良県出身の人、言動は記憶に残ります。
その次は、「絶対禁止」という言葉でした。
移植関係の学会が瀬戸内グループの病気腎移植を調査したあとの報告のなかで、ちょっと忘れましたが、ある種の病気腎を移植するのは「絶対禁止」という言葉をもちいたようです。
禁止で充分なのに、そのうえに絶対禁止というと、これをおかしたらとんでもない重罪という印象です。ところが罰則規定はなにもないそうです。これも違和感が多々あります。
医師というのは潜在的にとても怖い人たちという印象がありますから、その医師の団体に「絶対禁止」と言われたら、並の人は決してやらないでしょう。ただ、この禁止という言葉の対象は、臓器移植をする人たちですから、当然医師がいるはずです。その、医師の団体が医師にたいして、絶対禁止などという必要があるとは思えないのですが、たぶんそう言いたくなったのでしょう。
万波医師はそこまで断じられたので、もうやらないと、言ってるそうです。ただ、やっても何の罰則もないそうですから、患者に懇願されて、ついついやっても、罰則はないので、「絶対禁止」という言葉が浮き上がってしまいます。
自分の命は誰のもの、といういにしえからの問いかけを思いだします。いまは、自分の命は100%自分のもの、と思う人達が増えているはずです。その命をどうするか、助けてくれるのが医師のはず、そのためにこそ医療費を払う、と考える人達がたくさんいるはずです。あと余命が一年しかない三ヶ月しかないという風におもっている患者がぜひこうして欲しい、と頼まれたら、法に触れない限り、その望みが人間としてまともな願いなら、医師のなかにはその願いに沿って、医療行為をする人もいるでしょう。医療の選択肢は、患者の年齢や身体状況さらには当然ながら高額の医療費を払えるかによっても、著しく変わるのは当然でしょう。移植については、ドナーへの説明責任がともないますから、それが不十分なら、批判はされるでしょう。ただ、毎日日本中で行われる種々の医療が完璧な説明をともなうなど誰も思ってないでしょう。だいたい、説明を聞いてもよく解らないし、自分がどのような医療を選択したのか解らないケースは非常に多いはずです。医療を経験した後で、そうだったのか、と思うケースが非常に多いはずです。
そのような時に普遍的な意味を有する「絶対禁止」という言葉が特定の医療行為に対して、いっさいの強制力を伴わず、罰則もなしに、使われるのなら、ほんとうにその重さを保ちうるのでしょうか。