都知事選、最高裁判決について

都知事選に浅野前宮城県知事が出馬決意とかです。
がちがちの固定支持があると言われる石原知事に挑戦するのは、大変でしょうが、もしかしたらもしかするかもしれません。
これからの数週間の闘い方いかんなのでしょう。
この浅野さんというひと、なかなかのファイターとみました。石原知事はもちろんきわめつきのファイターですから、面白い。
政策論争がどうなるのか、そのあたりはわたくしにはまったく予期できませんが、そのあたりも面白そうです。
この浅野さんは役人出身で顔つきはやはり役人そのものですが、でもなかなかの硬骨のひとらしいのです。
ボクシングでいうと、そとからパンチを適確にうとうとする石原知事と、ブルファイターというのですかふところにもぐって打ってくる浅野氏、そんな戦いになるような気がします。
都民でないので、どうしても野次馬以上の興味は持ちにくいのですが。

今朝の新聞のすべてが社説で、君が代の伴奏をしなかった教員に対する懲戒が憲法違反でないという最高裁判決について触れていました。
朝日、読売、毎日、サンケイ、日経とネットでひととおり斜め読みしましたが、各紙の体質のちがいがみごとに出ていました。

わたくしはこの被告の人となりを知らないのですが、政治的な活動家でないようならば、こういう教員はたまにはいてもいいとおもうし、拒否するのもいるだろうとおもいます。
たとえ公務員でも、ごく少数の人間の考えを、一種の「人権」として認めて、伴奏しないのも認めてあげていいとはおもいます。
公務員とはいえ、全体の奉仕者としてやらねばならぬことは絶対せねばならない、というがんじがらめの考えは反対です。つまり、少数の変ったひと、珍しい人が公務員にいることは大切なことです。
徴兵忌避が出来るためには、政治的徒党としての反対者ではなく、良心にもとづく絶対的非戦をつらぬいてきた資格がひつようでしょう。米国のクエーカー教徒には認められていると聞きます。
君が代の伴奏を出来ない、というからにはその信条の背景を聞けば、わたくしは政治的徒党としての不服従か、内面の奥深いところにあるものから来た不服従かは、おのずと区別がつくと思うのです。校長さんはしかたなくテープを使ったようですが、代わりの教員はいなかったのでしょうか。

しかし、ひとたび今回のように裁判の争いになれば、最高裁の判決もひとりの少数意見があったこともふくめて、常識的にみてしかたのないものだろうと、おもいました。
日本の不幸なことは、教育現場にみずからの政治的信条をもちこむ偏向教員やそれを加勢する社会党のような政党があったことでした。そのためにこのような事例は政治的偏向と見られがちです。しかし、一般論として、政治的な信条でなく、良心にもとずく信条は認める必要があるのです。
一般論として、政治的信条にもとづくのでない、ルールへの不服従はたとえ公務員とはいえ認めてあげる、といいとおもいます。大抵の場合、代わりの人がやればいいのだとおもいます。それを止めようとする、偏向教員は厳罰にされてもしかたがない、というのがわたくしの正直な意見です。君が代は国歌というのが日本人の多数の意見だし、行政的にもそうあるべきです。

均質な日本がお好きな大臣がおりますが、すべて均質な公務員しかもたない日本という国はとても危ない国になるとおもいます。わたくしは、政治的信条にもとづいて職務をおこなう公務員は認めませんが、内面の良心から、上司の命令にもやれないことはやれないという、公務員は是非いて欲しいと思います。

いまの日本の公務員の世界では、良心にもとづいてやる職務などはほんとうに減っています。
だからこそ、このあいだ自殺を試みた女性を助けようとして命をうしなった警察官に対して、社会の感動というか、心からの同情があつまったのではないでしょうか。

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