続々と、今回の沖縄でのワークショップはほんとに良かったという嬉しい便りが入ってきます。その中には、沖縄のスタッフが本当に献身的にやってくれたという感謝の言葉が多くありました。沖縄でのもてなしの心が届いているのでしょう。表に出て来なかった人達の努力があってこそ、始めてこのような素晴らしい成果があがったのでしょう。特に設営面ではキッチンのないところでの三食の食事を担当された方々への感謝もわすれたくありません。衛生面からも大変気を使った日々だったことだと思われます。研究発表面での内容はもちろんですが、結局このようなスタッフ、設営、旅行代理店などすべての努力が結集して始めて、世界最高クラスの会議が出来たのです。賛辞のなかにはこれまで出た中でのベスト、米国の一流の会議、コールドスプリングハーバーのミーティングなどより、ずっと良かった、それを国内で経験できるなんて、という賞められすぎ、のような言葉もありました。来年どうするかは考えていますが、ぜひこのような会議を続けていきたいものです。
今日は、東京の八重洲の近くのホテルにおいて午後から分子生物学会の評議員会がありました。わたくしは、前期評議員で今回終わりですが、報告事項がありましたので、出席しました。わたくしなど、前期で退任したものが退席した後に新会長の投票があったはずです。学会は会員数が多くなり、運営もだんだん難しくなりつつあるような気がします。
第一期の会長であった渡辺格先生がお亡くなりになりました。90才だということでした。会の始めに黙祷をいたしました。
最近はお会いすることもまったくありませんでしたが、温顔を絶やさないでざっくばらんにお話しの出来る方でした。茶目っ気もたっぷりあって、ユーモアのあるお話しをよくされました。先生の元気いっぱいの頃のお姿を懐かしく思い出します。
黎明期の分子生物学を担った方です。
もともとは物理化学の出身で、分光学的なアプローチで核酸の研究などをやっておられました。先生は啓蒙的なものも含めて、沢山のことを書かれましたが、その中で「小ウプサラ学派」という先生が率いた分光学的アプローチのグループの顛末記は非常に興味深く読んだものです。先生はそれであきたらなくて、京大のウイルス研にやってこられて、分子生物学の「布教」に努められました。分子生物学が西高東低などといわれるのも、実は渡辺先生が京大にいた頃に芽が播かれたのかもしれません。利根川進さんとの出会いは特に有名です。先生はその後、慶応大学に戻られ、ずっとおられました。本流であって、野党的な感じがいつもありました。
分子生物学会は出来ましたが、先生がもうひとつ夢を抱いたアジアでの分子生物学機構はAMBO (Asian Molecular Biology Organization)という名前はいまでも残っていますが、組織自体はついに今日に至っても出来ていません。ジム・ワトソンなど多くのかたたちが協力してくれたのに残念なことでした。なにが足りなかったのか、またもう一度出来るチャンスが生まれるのか、赤堀先生、渡辺先生もお亡くなりになった今、考える機会を持ちたいものです。
京都駅に戻って、桜の咲き度を示す電光掲示板をみましたが、満開がほとんどありませんでした。東京も寒かったですが、京都も寒い。