きょう、午前中学会での講演をしました。
細胞生物と発生生物の二つの学会が合同した年会で、シンポジウムの一つがあったのです。会場は、博多の北部、埠頭の多い辺りにある元海岸の埋め立て地に建った国際会議場で行われたものです。
会場の大半は日本人ですが、発表は英語でした。会場には旧知のひとたちと、知らない顔の若者たちが多かったです。
会場の外では、発生生物関係の人達が来ているので、ながらく会ったことのない人達にも会いました。先生、ひげはどうされたのですか?とかあんまりお変わりでぜんぜん誰かわかりませんでした、と言われたのには参りました。20年くらい会ってなかったのでしょうか。
まだ学会はあるのですが、昼飯をシンポジウムの講演者達と過ごしてから、駅に向かって新幹線で帰路についてます。
学会の存在の効用は、このような年会だけやってるのが、一番無難だと思います。学会ゴロを作らないこと、これが一番大切です。
学会ゴロという言葉を知らない若い人のために説明しますと、学会ごろつきの略称です。
特に学会の会長とかその周辺がなんらかの権力をふるい出すと、ほんとうにろくなことがありません。わたくしなどは若いとき、あそこの分科とか細目に研究費を申請しても絶対通らない、なぜなら、後ろにいる、学会の上部の関係者連中がすべて仕切っていて、研究業績よりも学会への忠誠度というのか一種の順番で決まってしまう、こういわれたものです。しかも、大半がそんなものだと言われてほんとうに望みが断たれたような気分になったものです。
だから、わたくしも自分の研究者の一生とも言われるような期間、そのような一種の「学会談合」がおきないような学会であらねばならない、と不断に努力してきたものです。わたくしの同世代の仲間にもそう思った人達は沢山いたはずです。
つまり、学会の権威とか結束力とかそういう類のものは言葉が汚くてすみませんが、「くそくらえ」という気持でした。研究者ひとりひとりが強ければいいはずです。
しかし、最近またぞや、そのあたりが非常に怪しくなってきています。学会の会長がなぜか直接関係ないことに影響をふるおうとするとか、聞いたりします。マスコミや役所などが、関係研究者が学会においてしっかり相談して決めて欲しいとか、そういう文章をみたり、言動を聞いたりすることが多くなってきてます。おかしな世の中になってきました。個人よりも、学会のほうが安心できる、世の中らしいです。わたくしなぞは、学会を代表してものをいう連中がもっともまずい連中という信念でずっときたものですから。
ほんとうにいやな感じがするし、ガッカリします。
学会の年会でみんなが集まって、学問の話しをして楽しむ、それ以上の任務を持つときには、気をつける必要があると思います。それがどのような意義があるのか、十分に考える必要があるとおもいます。ここで書いたことは、細胞生物学会や発生生物学会とはなんの関係もありません、念のため。
昨日の午後は別なシンポジウムに出席して、夜は、めったにないようなメンバー三人でゆっくりおしゃべりをしました。よもやま話、食い物もおいしかったし、話しもなごやかで、とても楽しい時間を過ごせました。
会場に行く前に、薬院の辺りをぶらぶらしていたら、英国製のアンティークを売ってる店があったので、ふらっと寄って、おもわず相当な額の家具を衝動買いをしてしまいました。買う直前に妻に連絡はしましたが、慣れてますから、やめなさいとは言われませんでした。しかし、これはとてもいいものなので、実物をみれば、誰も文句を言う人はいない筈と、確信しています。京都では見たことのないような逸品で、きわめてリーズナブルな価格でした。
わたくしの場合、このような衝動買いに特有なのですが、そのあとでなんとも言えない豊かな気持になります。つまり、「やった」、という達成感です。長く探していたものに会えたという気分でしょうか。それとも、わたくしが長く求めていたのはこれだったのか、という「発見感」とそれを所有できる喜び、です。ちょっと大げさに言ってしまいましたが。
この気持が続く限りは、わたくしの衝動買いが終わることはなさそうです。