きょうの歯の治療はまったく痛くなく、楽でした。これで詰めるのが終わって、次はブリッジだそうです。
午前中米国から来られたMさんのセミナーをしてもらいました。沖縄での職に応募されています。彼はかつて英国のケンブリッジで亜鉛を含有する転写因子をK先生と一緒に発見されたのでした。いまはシステムズバイオロジーと一括りされる分野で働いていますが、より正確には比較ゲノム学とでもいうような分野でしょうか。
わたくしが自分のジョブハンティングをしたのは大別してこれまで三回ありますが、最初が1970年の頃でヨーロッパから帰国して米国へ行く間の短い期間でした。外国で職を探すという気持はほとんどなく、日本の学問というか、研究環境に入ってその中で優れた研究成果をあげるのが自分の使命、と思いこんでいた時期です。
運良く、インタビューというのか、そういう機会に恵まれました。
場所は、東京の駒場の喫茶店かなにかで、わたくしを紹介してくれたM先生に京大のT先生とO先生でした。わたくしはどんな服装でどんな質問を受け、どんな返事をしたかよく憶えていませんが、質疑応答というような雰囲気でなく、雑談に終始したような印象をもちました。関西の文化に疎かったので、たぶんクリティカルな質問があったのでしょうが、気がつかなかったのに違いありません。どうもすくなくとも、こいつはぜんぜん駄目だ、という評価ではなかったらしくて、その後何ヶ月たって人事公募がありましてそれに応募したのでした。M先生が教授で動く予定のラボのジョブであったわけでした。
当時のわたくしは生意気と嫌味を絵で描いたような人間のようなところがあったにちがいないので、京大と縁が持てるようにしてくれた、寛容な三人の先生にはたいへん感謝しています。M先生もT先生もお亡くなりになりました。T先生はずいぶん前です。
あの職探しの時期、なにも見つからなかったらどうしたでしょうか、別なルートは当時、米国でポスドクを続ける以外なかったようにおもいます。そういう意味で、あのインタビューはわたくしにとって、とても大きな意味があったはずなのですが、若気のいたりで、なにもわからずに勝手なことを言っていたのでしょう。
結局のところそれ以外のスタイルで面接できたとは思えないのです。でも事実は、わたくしの人生にとって、非常にきわどい出来事であったことは間違いありません。
歯医者の帰り、路地の入口に「あやしいーーー」と手書きで看板のでていたギャラリーらしき家に入って、展覧会的なるものを見ました。うーん、という感想ですが、押し花の作品には感心しました。
なかに一点作品の前に絵の具が三つと筆があって、この絵に参加してほしい、という若者の誘いです。勘弁して、といったら、わたくしが作者なので、その作者がいうのだからと、食い下がられて、しかたなくえいやっと、筆で曲線をかきました。