あう人の誰もが暑い、暑いとこぼすので、だんだん暑さを感じなくなりました。沖縄のKさんも開口、暑いといいましたから。あまのじゃくのわたくしの通性です。京都のほうのMさんが去年は暑さでフランスであせもになったと聞いたので、その点は気をつけています。
すごく大きなそしてモダンな会場で、たぶん500人くらいは入りそうな場所で、講演できてまことにありがたいことでした。
この年でこういう機会を得るのは申し訳なく、ありがたいことです。会場に沢山いる知っている人や知らない人や、世界各国から来ている人達をみていると、もしも自分が若いときだったら、この会場でどのような気分でいるのだろうか、ということを講演中にちらっと考えがかすめました。
この国際会議は、分裂酵母という微生物の研究者の集まりなのですが、いまはこれだけの人達があつまるとはいえ、30年前にはごく少数の研究者しかいませんでした。
米国であったその当時から多数の研究者がいる出芽酵母という名前はにていますが、非常に異なる微生物の会合にいくと(それ以外に行く場所がなかったわけでした)、いちばんよくて「変わった人達」という扱いでした。通常は「無視」でした。
そのうち仕事がかなり伸びて、内容もかなりなものになってくると、なんで同じ努力を分裂酵母でなく、出芽酵母でやらないのだと、面前でずいぶん批判的にいわれたものでした。
しかし、当時夢一杯だったわたくしは、関西弁でいうところの何をアホ抜かすか、ということで、元気いっぱいでまったく忠告に耳を貸さず、何百人のなかの参加者のなかに一人か二人の少数派を探して、意気盛んでした。
自分がしゃべっている会場で、かつての自分と似たような人達をさがすと、いるのかどうかわからない「少数派」をさがしてしまうという、パラドックス的な感覚なのです。ヘンなことですが、その時探しあてた少数派の一人が昨日の夜もうひとりしゃべったPNさんだったのでした。こういうのをなんというのか、たぶんわたくしのように年をとって、小さいながらもある分野の興隆を経験してきた人間が、なんども見てきたことなのでしょう。ですから、わたくしには始めての感覚でも、歴史的にはどこでもしばしば起きている既視(デジャビュ)のできごとなのでしょう。
正確にはこの分裂酵母の研究者社会自体にもいまや「格差社会」的なものがかなり存在しています。
出芽酵母グループはいまも昔も圧倒的多数派(特に米国で)を誇りますので、絶え間なくわたくしたちはそこのグループからの圧力にさらされています。
研究者は競争社会ですから致し方ありません。
しかし、本来は分裂酵母をやる人達は、「団結」しなければいけないのですが、内部的にも競争がありますので、この団結が難しい。
つまり、資本に対して、給料格差が激しくある、労働の側がそもそも団結できるのか、というような比喩的な内部事情もあるのです。団結を重視するのか、個性を重視するのか、そこのところがわたくしも若かったら、悩むでしょうが。
へんなほうに、話しが向かいました。
わたくし本来は京都と沖縄で二重隠居生活をしているはずなのに、たまたま前に押し出されるようなことが昨夜ありましたので、ついつい書いてしまいました。