幼少の頃からの無言無表情、事態を乗り切るには

百万遍の交差点を横切る若者たちの多くは、東京本郷の赤門などと似て、偏差値が格段に高いのでしょう。そういう「濃度」の高さも考慮しつつ、此処を朝の通学ラッシュ時に自転車で横切る若者を観察すると気がつくことがあります。
急いでいるので、はっとするような危険な一瞬がしょっちゅうあります。しかし、人と自転車、自転車と自転車、どちらの場合でもはっとした瞬間のあとでも、かれらは無言無表情なことがほとんどです。
わたくしなどは、危険な自転車がそばにくれば、顔の表情のみならず言葉にも「危ないじゃないか」と、でそうですが、幸い敬老精神は残ってるのか、そこまでわたくしに至近距離で迫ってくる自転車はまずありません。
やはり気になるのは自転車同志がわずか5センチ、10センチまで正面になって停止しても、いっさいのジェスチャーも、顔の表情の変化も、言葉もでないことです。
見事なものです。相手が人間でなく、物体とみなしたほうが相互トラブルがないのでしょうか。年が近い人間のあいだでこういう時に言葉や表情を出すと、危険なのかもしれません。無言、無表情のあとは、あいだがなくて、いわゆる「切れた」状態になるのかもしれません。
そんな風にわたくしはこの「現象」をみています。
幼少の頃からの数多の経験がかれらのこのような挙動を作っているのに違いありません。
社会の基盤の人と人とが至近距離まで来てしまったときの、身の処し方として、無言無表情が今の日本の若者社会の一つの典型例ともおもいます。もちろんわたくしは非常に困った事だと思っていますが、直ちにだせる処方箋はありません。

もう一つついでに書いておきますと、今の若者達に全般的にいえるのかどうかわかりませんが、本人にとって困ったり困難な事態を乗り切れない人達が非常に増えている感じがします。わたくしの周辺ではといったりすると、差し支えがありますので、事例のサンプル、そのあたりは漠然ととってください。

どうも「単線型の思考」が多いようです。つまり駄目だったらどうするという類の考える範囲が狭いというか「ひとつ」しかない場合が多いのではないでしょうか。
子供の時から、ひとは生き方も死に方も千差万別というあたりまえのことを家庭でしつこく教えてあげないのではないでしょうか。というか、教えなくても自然に分かる家庭があまりないのかもしれません。
わたくしはこのブログで離婚を取り上げたことがありませんが、ここで取り上げますと、婚姻が年間80万くらい発生しているようですが、離婚は28万件です。これは6,7年前の統計ですが、いまはもっと離婚が増えているでしょう。どんなに幸せそうに結婚しても、厳然たる統計はカップル3件のうち1件は遅かれ早かれ離婚するのです。離婚を考慮する夫婦はもっと多いでしょう。
癌で死ぬのはいやと思う人は多いかもしれませんが、日本人の三人に一人は癌で死んでいます。癌になっても直る人達は沢山いますから、いやでもどうでも癌になるひとはさらに多いことになります。
こういうことから、目をそむけないのが大切だとおもいます。幸せとかいうのは、こういう当たり前の事実を知ってからだとおもうのです。しかし、一方で政治などのやり方一つで社会の様子がガラッと変わってしまうことがあるとおもうのです。いま地方と東京などの一部の大都市の間での格差がいろいろ取り上げられていますが、そういう問題は政治の行い方ひとつでずいぶん変わってきます。社会のしくみや政治そのものに興味をもつことは非常に大切です。これも家庭で教えるべきことです。

話しがすこしそれましたが、個人的に直面する困難な事態の解決には、沢山の線が自分の前にあって、自分で選択できるのもあるし、選択できないのもある、まずそれを理解することだ思うのです。そして、選択したらはっきり選択したと内面的にみずからに宣言しないと、社会ですっきり生きていくのは難しい、ということを子供の時から早めに家庭で教えてあげないといけないのだ、とわたくしは思っています。選択した線がうまくいかないときはどうするか、だれでもがかならず直面する問題なので、それを考えるのは生きていくこと自体の何分の一かに相当する価値があることも家庭で早めに教えてあげることだと思うのです。そして、政治がよければこうなる、悪いとこうなると、いうことを親は信念をもって子供に伝えることだとおもうのです。

きょうはちょっとえらそうな書き方なのであまりいい気分ではありませんが、文章を推敲すると時間がかかるので、このあたりで止めておきましょう。

タイトルとURLをコピーしました