あさ、食事中になんと左の奥歯の一部がぽろりと欠けました。このあいだから強く噛むと痛みがあったところでした。その歯のかけらを持って、歯医者に行きました。今まで治療していないところでしたが、応急的な対応はすぐやってくれました。歯の3分の1近くが欠けたのだそうで、たぶん亀裂が入っていたのだろうとの話しでした。そういえば、生春巻きの中に入っていたピーナッツの砕いた細かいのを食べたときに痛みが走ったのを思いだしました。でもそれが原因でなく、わたくしは玄米の中に混じっていた小さい石が原因だと信じました。だいぶ前ですが、目の前に火花が飛ぶくらい痛かったですから。歯医者さんはかなり硬いものをかみましたな、とひと言ありました。
あしたは学術会議の講演会です。
わたくしの話の大前提は、研究者のつくるコミュニティーが世間一般とかけ離れた特殊な社会ではない、世間の常識が通用してる社会のはずだし、通用すべきだということです。
わたくしの課題は、研究者の意欲と研究者のもつ倫理観、研究者のおかれた環境をいかによいかたちで関連づけられるかということです。
意欲が高く研究者倫理も置かれた環境もまったく満足すべきなのならば、なにもいわずに終われるのですが、実際には色々なところでほころびが見える。場合によっては非常に深刻な事例もあります。
いったいどうしたら、よいのだろうか、そのあたりのことを話題提供も含めてお話ししたい、こう思います
研究者の意欲というものをひと言で片付けるのは問題ですが、しかし話しを簡単にするためにいいますと、なんらかの自己のもっている願望を長期にわたる努力や苦労をものともせずに達成したい、そういうものだとおもいます。別なことばでさらに簡単に言いますと、自己実現のための意欲といっていい場合が多いのだと思います。
ちょっとおかしいのじゃないか、研究者は世のため人のために汗水たらしているのではないか、という意見も当然あるとおもいます。ついこの間も属する研究分野に貢献するのが研究者の喜びといっていたじゃないか、といわれそうです。
その通りなのですが、正直心の奥底まで見通すと、やはり研究者も建て前とかで研究の申請書いてあるのとはちょっと異なって、やはり一人の人間としての夢を追いかけている場合が多いのです。自分の欲のためというと身も蓋もないのではありますが。ですから、研究者のコミュニティーでは自戒の意味もこめて、目的のためには手段をえらばないような研究者は非常に嫌がられるし、嫌われる。いろいろなかたちでエゴが強く出ることを抑制しているのも、研究者のもっている「意欲」というものの、危険性が分かっているからだと思います。
ここから先の論旨は省略しますが、一部の研究者が
研究費があたりやすい研究プロジェクトを選ぶ
研究職が得られやすい研究分野を選ぶ
有名ジャーナルに論文が発表されやすい、研究環境を選ぶ
そして、これらが彼等の基本的な「研究倫理」になってしまったら、どうなるのでしょうか.
彼等を責めることは容易にはできません。
結果だけ見たら、成功した研究者の多くがこのような結果を生みだしているのです。
研究意欲というのはたしかに、研究者にとって金科玉条かもしれませんが、ほんとうは危ないもの、怪しいものという、側面があることをわれわれは認めなければいけないのだと思います。そうでないと、研究意欲の美名のままに無批判に行政や研究費機関が推奨する研究が横行する可能性があります。
講演ではさらに論じていきたいと思っています。