簡単なものほど

簡単な実験ほど奥が深い。そして解釈が難しい。でも一番面白い結果がでる可能性があり、また先人の見過ごした重要なことを発見する機会でもある。
実験を始めてまだ数年後、毎日しゃにむに実験をやっていた時期に体得した「真理」なので、わたくしの研究者稼業の原点に近い考えである。

複雑な実験でも、答えが分かっている実験はやっても面白くないし、思った通りの結果がでればますます面白くない。でも、答えのまったく見当がつかない実験をやってるとすぐ迷路にはまりやすい。複雑な実験は、迷路にはまると出ることも出来ないので、その実験をやめて、とりあえず忘れる以外に解決策がない。しかし、簡単な実験は、すぐ実行できるし、しかも奥が深いので力を蓄えるのに一番効果がある。

簡単な実験をやって、一見再現性があるようで、詳細に見るとかなりのばらついた結果を生み出してる場合がチャンスである。その様なときは全神経をとぎすまして、ありとあらゆる細部の違いを見逃さない。毛一本の違いも見逃さない、そういう気分になると、体験的には何回かに一回は「当たる」ものなのである。

「当たる」ためには、絶え間なく新しい解釈を試みるべきである。面白くない解釈と面白い解釈の両方を常に準備しながら、実験結果の細部にこだわっていくべきである。

前人未到とかいうが、まったくの未到の地は、実は誰もが知っていて、多くの人がしょっちゅう歩いている、その様な場所のすぐそばにあるものなのである。極北の高山のようにはるかにかけ離れたものだけが前人未到なのではない。

自分の成功例を引くのは気がひけるので、電子顕微鏡の観察方法でのネガティブ染色法の発明のケースをあげよう。操作は実に簡単で、人工的に作ったカーボン膜の上に試料液を一滴たらす。しばらくしたら濾紙で水滴を除いて、次に染色剤液を一滴たらす。また濾紙で水滴を除いて、膜上に残った染色物質に囲まれた試料粒子を観察する。あまりに簡単である。これは2003年にノーベル賞を授与されたブレナー博士が考案したものである。彼は他にもいろいろ業績はあるが、これも重要なものである。それまではポジティブ染色という方法を誰もが使っていた。染色剤を良く洗って、試料粒子に結合した染色物質を見る、ところがネガティブ染色の場合、洗いを横着してやらないのである。操作を一つ手抜きしてる。

電子顕微鏡の場合、試料粒子そのものは生物材料の場合見えなくて、重金属から成る染色物質を見ることになる。ネガティブ染色の場合、例えでいえば、「石膏の型」を観察するようなものである。ポジティブ染色の場合は、洗っても落ちない「染色模様」をみてる。

ネガティブ染色を実際にやってみると、見える試料像が毎回異なったり、顕微鏡の視野にある試料粒子が千差万別のように異なるので初心者はかなり困ってしまう。操作があまりに簡単なだけ、方法をどう変えたらいつも再現性よく同じに見えるのか分からない。
つまり、簡単なものほど奥が深い典型例となる。でもそのうち分かってくる。なるほど、この多様な試料像の中から適当に自分がこれだと思うものを「正しい観察像」として発表していたのだなと、分かってくる。少なくとも先人はそうしていたのだな、と。しかも簡単な操作と思っていたものが、実は決してそうでなく、操作は多種多様に変えることが可能なことに気がつく。簡単な操作のように見えて実はバリエーションはいくらでも作れる。

答えをあかせば、ネガティブ染色は石膏のような型取りではなくて、染色重金属が試料粒子を変形させ、場合によっては部分破壊を起こしながら、試料粒子の隙間、割れ目に染みこんでいくのである。だからいろいろな構造が見えるのである。もともとの構造をみたければ、出来るだけ保持出来る条件を見つけ、しかもそうして得られた観察像がもともとのものに近いのだと、証明しなければいけないのである。
さらに電子顕微鏡は焦点深度が非常に深く、立体的な構造の情報のすべてが、2次元に圧縮されて像として得られるのである。これはわれわれがまったく慣れていない画像である。つまり、前後像、内部すべてが圧縮情報としてみえてしまうのである。
こんなことがネガティブ染色法の考案の後に次々と発見されたのである。そして、本格的なコンピュータを用いた画像解析によって、画像の持つ意義ある情報は徹底的に利用され、3次元立体構造の決定に成功したのである。この間、およそ10年である。さらに周辺領域として、医療診断でのCTスキャンやMRが生まれたが、その発端は、この簡単なネガティブ染色から始まったといっても過言ではないのです。。

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