今日は、自主研になって始めての、ゼミ。わりあいよい調子。質問も活発。わたくしも、ゼミでの介入的な教育の放棄宣言。みんな自主的にやりましょうとのこと。このような感じでいければよいのだが。
K大ではずっと学部教育講義、経験が長くなってからは入学ほやほやの新入生の講義もやりました。わたくしの講義はそうたいに評判が悪く、先生のは何も教えてくれないという、文句もよく聞いてます。わたくしのほうは、数人でもわたくしの講義で興味を触発してくれれば十分という、少数派志向の考えなので、そのあたりは完全なすれ違いです。わたくしとしては、講義のかたちで研究哲学のようなものをしゃべってきたつもりです。でも、まあ一方通行なのでしょう。
K大の教育好きの先生がいちばん目のかたきにしそうなタイプの講義をずっと続けて、最後の退職まできてしまいました。
最終講義とかいうものも、最終という言葉にカチンと来て、やらずじまい。というか、その点も何年も前から考えていたとおりに実行しただけですが。
つまり、1年半くらい前の学部のわたくしの担当した分子生物学講義の最終コマに「これがわたくしのK大での最後の講義でした」とぼそぼそいったのですが、最前列の学生がキョトンとした顔つきで、わたくしの顔を見てました。ですから、あれがわたくしの最終講義でした。
平均的な学生から見たら、わたくしの講義は歓迎できないタイプのものでしょう。でも、まあごく一部の学生にはそう悪くなかったはずです。自らの研究への情熱のようなものは自然出てくるようなスタイルでやっていましたから。
わたくしは、基本的に偏差値学生が嫌いだし、K大ステロタイプの学生とは5分間会話がもちません。そういう学生とは、わたくしは石ころ程度の関係しか持ちたくありません。そのうえさらに、K大偏差値エリートの鼻持ちならない感覚を出されたら、気分が悪くなるだけです。この学生は何様だと思ってるのだろう、親の顔が見たい。わたくしの後年の口癖が、親の顔がみたいでした。25年前に偏差値学生が入りだしてからは、学生に対しては全般的に失望の連続でした。いわゆる砂をかむような日々がわたくしの学部教養教育の体験でした。
偏差値教育では人格はまったく判定できないので、K大で前途有為な人格の若者が入ってくる機会はほぼ世の中の若者からランダムに学生を選ぶのと変わりないのですね。しかも、偏差値が高いという誤った価値観を持ってる分、前途有為な人物の頻度は相対的により少ないかもしれません。
でも個人的に幸いなことに、わたくしの研究室での大学院生には他大学出身者もふくめ、まあまあそこそこの若者が入ってきてくれたので、研究室自体での若者とのつきあいに特別な不満はなかったのでしたが。それでもおりおりに親の顔が見たいなどとぼやいていますが。
大学院生に対しての主たる不満のひとつは、研究室にくるまでに、研究をするための準備をなにもしてない人達が多かったことですね。もちろん例外はおりますが。
数は少ないのですが、女性院生の学位取得者に対してはその様な不満は相対的にはずっと少なかったです。ただまあ大失敗もありますが。女性研究者はもっと育てたかったという感覚は残ってます。
学生さんのことや教育については、これからも何度も触れると思いますが、今日はまずその第一回目。ちょっとネガティブなトーンがきつかったのですみませんが、しかし正直にものをいわねばこのような問題は理解されないとおもいます。