始めと、終わりと中途のものと

ここ数日、暑くて蒸します。ただ朝晩はかなり涼しい。雨が降るはずだったのに降らないので、気になる苗があります。

昨日の話題の続きですが、迷っていたのは二つデータでして、一つの方のデータは論文に載せるほうに決めて、もう一つのほうのデータは載せるのをやめることにしました。
こういう決め方が積み重なっていくのが、研究の本質なのだとわたくしはおもっています。
decision makingと英語でいいますが、スパゲッティとマカロニグラタンのどちらかを決めるような一見カジュアルに見えることの積み重ねが研究の質というか個性というか、もろもろすべてを決めていくのです。わたくしはたいていのこと、つまり95%くらいのことはさっさと決めているのですが、この5%くらいがなかなか決められないことがあるのです。でも決めにくいといっても重大と言うよりは、自分の個性、もしくは研究室の個性にとってどう決めるのが「らしい」というか「合っている」のかそのあたりで迷うのです。小さなようですが、後で長期間それとなく影響がでるのです。つまり、大きな問題は最初から大きくは見えないのです。たいていは些細なことのように見えるのです。

こういう一見どうでもよさそうなことがで重要ということは沢山あります。
重要とか重要でないかは、本人と周りで大違いと言うこともあります。
たとえば、医学では髪のの毛が多いか少ないかなど特別な病気でもないかぎりまったく関心はもちません。しかし、本人にとっては大問題となりうるのは、カツラや育毛剤と称するいろんなものがどれくらい売れているか見ればすぐ分かります。
なんでも価値というのは多くの場合、最後は人間にとっての価値になるわけですから、どうでもよいことがそうでもない、ということになるとそこには無数の人間的価値や経済的価値が出てくるのでしょう。
基礎研究などはほとんどの場合、明日に無くなっても社会はすぐには痛痒を感じないものなので、ますますそこで重要とかいってることの大部分は、たいしたことではないのです。進歩するのがきらいでいまの知識や生活で十分なら必要のないことをやってることが大半です。
こういうことを考えていくと、わたくしの個人的体験からは、社会の中でどうでもいいとおもわれるところにいけば、沢山の面白い、夢にも思わないような「価値」があるのだと思います。

わたくしの個人的な関心は、たいていの場合、「始め」、「終わり」そしてあとは一括して「中途のもの」という三つの分類に従っています。膨大な「中途のもの」はほとんどすべてずばりと切り落とせるのでたいへん考えを整理するうえで、楽です。そんな風に考えているものには、どうでもよいことのなかにこそなにか、本当に新しいなにか珍しい兆しがないかどうか、そのあたりの検証を常にやりたくなります。終わる方はだいたい自然に終わるので、無理して終わらせなくてもいいと、個人的におもっています。
わたくしの人生でやったことも大半は「中途のものなので」、回顧するとすごく単純なイメージがわいてきます。どうでもいいことですが。

遅々として進まなかった論文の議論のセクションをきょうは無理矢理書いてしまいました。後で読むとガッカリするでしょうが、とりあえず、いま冷却の時間でブログを書いています。

きょうは早めに帰って、サッカーのコロンビア戦を見たいと思っています。

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