幅広えりしゃつについて

きょうは非常に集中的に朝から働いたとはいえ、理髪にいく時間があったのですから、まあまあでした。しかし、かなりくたびれました。家に帰りたいとは思ったのですが、たぶん帰る前にこのブログを書いてしまうのがいいかな、と判断しているところです。

このあいだ携帯を買ったのですが、どうも様子がおかしい、購入したところの店のひともへんだと、いうのでとりあえず持って帰ってもらいました。

宮本元共産党議長が老衰で死去とか。むかしは、みやけんといったものですが、元気なひとだし、奥さんはかれよりも著名な小説家の宮本百合子氏でしたが、やはり時代が進みすぎて、お亡くなりになってもなんの感慨も浮かんできません。むしろ、日本には共産党という名前の政党がまだあることのほうが不思議で、感慨がわいてくるくらいです。

きょうはこのあいだ沖縄で買ったかりゆしを着ていましたが、理髪の大きな鏡でいやもおうもなく、自らの姿をみせられて、つくづくおもったことは、このかりゆしは似合わない、どうしてか、たぶん襟がひろすぎるからだという、妙な独断的結論がでました。

わたくしは広い襟のシャツをきると、どうも気持がしまらないので、だらっとした気分の時には着るのですが、平素真剣に働いているときにはこの広い襟のシャツは着たくないのだということが、心理的にあることがわかりました。
たぶん、その心理の源流は学生の時の詰め襟服がげんいんでしょう。あれを6年くらいきてましたから。
ヨーロッパでどこかの国の車掌さんがまったく同じ詰め襟と帽子をかぶっているのを見て、なるほど時間を気にしてきっちり働くのにこの詰め襟がいいと、日本の文明開化の先人は思ったのだと納得したものでした。
それでいまでも、ハイカラーのシャツを着ると気がしまるし、医師に診療を受けるときも、襟が小さくて立ってるようなシャツを医師が着てると安心して、かりゆしとかハワイアンみたいなシャツを着た医師では大丈夫かななどとおもう、感覚があるのです。

妻はさっぱりそういうわたくしの心理は分かってないみたいですが、やはりシャツはよく考えて買わねばいけないと、このあいだみずから買ったかりゆし二枚とも幅広襟だったことをおもいだして、ガッカリした次第です。
沖縄にこれからも行くのなら、自分ににあうかりゆしを探すことはかなり重要です。

きょうは疲れ切っているので、こういうしょうがない話題で頭を楽にしていまから帰ります。

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