しばらくぶりに会ったAMさんとは色んな話をしましたが、その中のひとつは、われわれが結局どんなふうに研究に関わってきたのか、ということでした。
彼は、わたくしたちが共通点として、ノンコンフォーミスト(non-conformist)であったな、といってくれました。
この言葉は、世間の常識に従順にしたがわないというような意味くらいにおもっていましたが、今回改めて辞書を見たら、なるほどとおもいました。
英国国教会に従わない人達を記述するために使われたのが始めのようでした。
そうか、そういう意味があったのか、とよりよく分かったような気がしました。
AMさんはわたくしより格段にわかいし、一回り以上も年は下ですが、つきあいは非常に長くて、まだわたくしが40才になったかならないか、からのつきあいではあります。互いを理解する時間はあったのかな、とも思えました。
おたがいに目指した研究の方向は、誰もがまだ気がつかない、目をつけてないことをやりたい、そのために常に少数者でありつづけたい、多数派の常識とは異なった人生を送りたい、そんなふうに願ってきた事かもしれません。
結果として、わたくしなどはそれ以外のよけいな事でも常に少数者的になってきたような気がするのですが、これは自分の気性なのでしかたありません。彼は心優しいので、それはそれなりに、苦労もしているでしょう。わたくしは、こう見えても獰猛なところもありますので、彼が苦労したようなことはしていません。しかし、彼の人気を100としたら、わたくしのは1にもいくかどうかです。
おなじnon-conformistでもそのあたりは大違いです。
自分の過去をふり返ってみると、いったい自分はいつ頃からあまのじゃくだったのだろうと、おもうのですが記憶の範囲でずっとそうだったような気がします。ただ、なんでもあまのじゃくだったわけではなく、割合同意性というか部分的協調性は高かったような気が自分ではします。しかし、小学校の2年くらいに同調性が低いので困ると親が担任の先生に父兄参観でいわれたのですから、わたくしのいちばん目立つ個性だったのでしょう。当時は(いまでもですか)協調性が低いのは、かなりまずかったのでしたので、先生からみると、しつけの悪い子だったのでしょう。母親もたえまなく、嘆いていまして、わたくしと母の衝突の大半は、わたくしが母親のいうことをなかなか聞かないことにあったのでした。今から思うと、母親は偉大なconformistでした。わたくしも母親のconformistの遺伝はまちがいなくあって、周囲の人間にはわたくしが世間の多くのことはたいてい同意していることに気がついているはずです。
20代前半の頃は、自分の持つ自我を周囲に対して発揮したいと思ったときは、とりあえず、まずノーといってから、その理由を考えるくらいに、なってました。やはりあまのじゃくと協調性の低さは、自分の人生の筋金というか背骨だったんだと、おもいます。
わりあい早く、自分を個性的にするには、自分のこの否定的傾向を高めるのがベストと思いだしたことは事実です。
その傾向をほとんど出さないですんだのが、留学にいった頃で、周囲にconformistがほとんどいない環境だったので、自分がことさらnon-conformistと主張する必要がなかったのだとおもいます。