研究者というのは、どうでもいいことはほとんど真面目になにも考えてない場合がままあるということも世間は知っておく必要があります。
たとえば、基礎研究者というのは応用のことをほとんど知らないというか経験がない。この場合、応用というのは成果でたとえば医療に役立つ、成果を用いて企業がお金を稼ぐとでも考えてください。しかし、研究費申請時には何の役にたつか、とかならず聞かれなにかもっともらしいことを書かねばなりません。そういうときはその分野の大物がいっているようなことを無批判に書くものです。独創性など考えていません。
わたくしはそれが悪いといってるのでなく、そんなものであると事実を書いているに過ぎません。審査する側も社会にとっていかに有用であるかの部分はあまりちゃんと読まないし、重要な評価点をださないものでした。これが基礎科学の審査の長い期間の状況でした。しかし、英国や米国のトレンドが先進する国の研究者に聞くと、なかなかそうもいかないご時世で、がん研究と銘打つからには、かならず癌治療に役立つ研究上の戦略をしっかり書き実行する気迫を持ってないと、審査には通りにくい、と聞きます。
それで社会に役立つという部分はどうでもよくないどころでなく、真剣に現実的でないといけないというのです。そうなると、酵母を用いた癌のモデル研究などというのはそれ自体ではほとんど審査に通る見込みが無くなり、得られた知見を癌治療に使えそう、なスキムを提示する必要が絶対的にあるようになりました。
それがいやなら、まだ役にたたない基礎に限定した基礎研究で比較的少額の研究費に申請する流れとなります。もしくは、モデル研究でも沢山研究費を出してくれる研究費配分機関を探さないといけません。そういうところはほとんど無いそうです。
こういう研究費配分の流れで世界の基礎生命科学は支配されていくのでしょうか、上からの方向付けがますます厳しくなるのでしょうか。
最初に戻れば、ごく一部の研究者以外は、応用に得意な人はほとんどいませんから、反抗もできず、唯々諾々と流れに沿った研究をすることになるひとたちが増えるのでしょう。
10年20年が経った時になにが得られるのか。
わたくしは悲観的な予想しかありません。砂漠のような研究所と人材の枯渇した大学にならなければいいのですが。
でも一方でこうなったのも研究者の責任だったのでしょう。気楽に現実性のない有用性を書いてお茶を濁してきたのです。
わたくしは真の意味で役に立った研究を論じることが一番大切と思うのです。タイムスパンも10年くらいの長さで議論することが大切でしょう。真に役立つ研究が生まれる前にどのような研究が必須だったのか後付けすれば80%は基礎研究だったことになると確信します。
すべての優れた研究が役に立つことは自明とわたくしには思われますので、さらに直接的に役立つ段階にどれくらいのタイムスパンでなるのか、そのあたり、研究費配分機関の人達も交えて、ひとつひとうの成熟した分野(つまり有用研究が生まれた)を吟味することに深い意味があるでしょう。