慶賀する気になれない沖縄返還40周年

もといた京大の研究科の同窓会誌の寄稿を頼まれていましたが、忘れていました。きょう連絡がありまして、急いで書きました。思いのほかすらすら書けたので何時間か得をしたような気がしました。
それから、今年に入ってから3報目の論文を手がけ始めました。2報は終わったのではまったくないのですが、置いてある状態になりましたので、3報目を手がけるというわけです。今年に入ってから宿題を片づけるスピードはここまでは順調です。

ことしは沖縄返還40年目です。こちらにいると、NHKは毎日テレビで特集的に番組を組んでいるので、忘れることはできませんが、でも本土ではたぶん忘れているでしょう。
1972年の5月15日に施政権が返還されました。余計なはなしですが、わたくしの結婚もこの月なのでした。
沖縄でいちばん問題と言われている日米地位協定は返還時にまったく見直されなかったので、今でも沖縄米人の裁判は一次的に米国側にあるので、不平等性はいまでも強く残っているわけです。つまりこの部分についてはなにも[返還]されなかったわけです。
他にもいろいろ不平等性は色濃く残っているので、返還40年といっても何も手放しで喜べることはなく、NHKも沖縄ではそのあたりの事情を無視することもできず、本土的にみればかなり[反米的」[反日本政府的」に番組をつくっても沖縄県民から見ればそれでも本土寄りと感じられてしまうわけなのでしょう。
嘉手納の空港を通じて日本国内に入ってきた米国の兵隊とか軍属は外国人登録の義務がないので、どんなに多数入国しても日本側は人数の把握すらできないわけです。信じられないですが、しかしこれが事実です。また基地の返還があったとしても、そこに放射能があろうと猛毒物があろうが、その現状回復は米側にはまったく義務がないというのだそうです。
これでは、佐藤栄作元総理が返還の立役者としてテレビ画面になんども出てきますが、感謝の念は持ちえないでしょう。それで佐藤元総理がノーベル平和賞をもらったということすら話題にもならないわけです。つまり、日米地位協定という不平等性のシンボルが残っている限り、返還40年といっても慶賀する気持ちになれないのでしょう。
普天間基地よりある意味ずっと深刻な状況が残っているのです。しかし、これは米国の責任といいうより、日本政府の温存政策の責任というべきなのでしょうか。

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