いろいろと刺激的な情報が東のほうから聞こえてくるのですが、いまは書くべきでないらしいので、やめておきまして、きょうは論文刊行とはそもそもなんなのかについての自分の考えを書いておこうとおもいます。
論文を書くとは結局宣伝告知の類ではないのか、とおもいます。昔論文投稿の経費は研究費に入っていませんでした。研究費で払うものではない、機関か個人かが払うものだ、などという理屈だったのかもしれません。いまは研究費で堂々と払えます。公開が必須のジャーナルでは30万円とかかかるのはざらです。つまり研究の完結は論文をだして研究成果内容を一般に公知するということなので、パブリックの利益になるはずで、だから国民の血税も刊行費に使ってよろしいということになります。個人の欲望を満たすための私利私欲の論文刊行なら血税を使うべきでない。当然のことです。
ですけれども、論文刊行や学会発表はやはり宣伝だと感じています。
発表者のしているしゃべり方なども聞いていれば、また論文の内容を読めば必死に宣伝していることをひしひしと感じます。とくに研究成果の査定などの席での研究者の発表は生活がかかった[宣伝」と感じる事がおおいです。論文内容も、いかにすばらしい発見や効能みつけたなどの文章があちこちにあります。こんな感じですから、多くの論文は宣伝以外の何者でもない、こう感じます。英語ではadvertisementに相当するので、宣伝以外にも通知、公示、告知などと訳される場合もあり、公共的な宣伝行為が、学会発表や論文発表などに相当するという考えでいいのでしょうか。
そうなると、たとえ広告でもというか、広告だからこそ、虚偽や嘘などがあれば糾弾されるし、まちがいも間違いがあったと認める必要があることになります。もちろん広告媒体のスケールもある程度関係して、読者数が多いのと極めて少ないのでは、影響にも大きな違いがでます。テレビとか何千万人が見る広告でぬけぬけと嘘八百の宣伝をすれば嘘と分かった後の世間の糾弾が厳しいのは当然です。
しかし、根本的には宣伝だということになると、その本質のところに立ち戻って考える必要があるわけです。そもそも宣伝は好きじゃなかったのではないか、伝統社会の日本では。
必要なデータをずらずらと並べてろくすっぽ説明もしないでいる論文があったとします。宣伝的努力をまったくしていない。しかし、見る人がみればすごい新規データで、結論もたった一行しか書いてないけれども、真理をひと言で言い当てている。こういう論文、分かる人は分かる、しかし大半のひとには分からない,ものになります。いっぽうで同じデータを素晴らしく分かりやすく説明してあれば、だれでも後のほうの論文に、その意義と価値をみとめ軍配をあげるでしょう。前の論文はよほど探さないと見つからないかもしれません。
しかし、かつての日本文化、つまり伝統的日本文化は、以心伝心、言わなくてもわかる、過剰な説明は見苦しい、こうだったのです。
日本文化は宣伝などしなくてもそのすごさが分かる人にはわかる。そのごく少数でもわかる人がいればしい。
わたくしはいまでもこういう価値感に惹かれてしまいたい衝動にかられることがあります。しかし、「待て、待てそれではだれも分かってくれないじゃないか」、こう思い返すのです。本来の西欧社会での学者稼業の本質を思うのです。
でも、宣伝しなきゃならないのにそのことに嫌悪感を感じるのです。まあ甘ったれているのです。
たぶん日本人の、いまではごく一部になったかもしれない、伝統文化や社会への痛切な回帰的衝動です。しかし衝動は感じるものの、実行はできない。わたくしが学者としてある程度成功したのはこの衝動を抑えて来たからでしょうか。
上に挙げた例、それに近いケースは案外多くて、前者の人物は日本人とは限りません。
宣伝下手でしかし研究能力は極めて高い研究者。案外世の中に多いのです。
後者の人物は、その読むづらい論文を読んだレフェリーかもしれません。知恵も働くので、その論文の刊行を遅らせつつ急いで追試のような実験をする。そして、実に分かりやすい論文を書いて、刊行して、いわゆる宣伝の部分で完全な勝利をおさめるわけです。
こういう逸話はわたくしは人生で何度聞いたでしょう。いやになるほど、聞いています。ありふれた出来事なのです。
日本でよりも海外でとても多いですね。
日本人は自分がそういう目にあっても気がつかない人が多いみたいです。なんだか変だなと感じるくらいはあるかもしれません。
かなり不愉快な話ですが、救いのある方向が暗示されています。つまりぜんぜんそういうことを気にしないか、もしくはそういう行為を発見して、徹底的に糾弾することです。
というか、そのような行為を知りうる立場にいる人々にリークしてもらうのです。
本当は有名ジャーナルにかぎらず色々なジャーナルの編集者、エディターは証拠を握っているのです。でもかれらは絶対開示しません。著者から要求されて匿名のレフェリーを開示したら、だれもレフェリーをしなくなります。でももしもレフェリーの匿名性がなくなったら、関係分野の学者が驚き呆れるようなレフェリー行為というのは実際無数にあるのです。
宣伝は公共の利益のためにあるので、嘘や誤りがないように同業者がレフェリーとして読んで批判するるというルールはとても良い面があるのです。でもに、これの制度が続くかぎりこのような事例はいつまでも続くでしょう。
日本の世間では捏造データの論文の問題で血道を上げている人々が非常に多いのですが、日本の未来の科学にとってどこまで価値があるのか分かりません。ガッカリすることばかりのような気がします。
日本の科学にとっては宣伝ベタ、謀略ベタ、秘密をあばく能力の低さを嘆くような人々が増えるほうが意義があるのかもしれません。それともなぜ宣伝ベタなのかを世界の研究者に理解してもらい、忠告をしてもらう。これもいいかもしれません。
日本的研究の宣伝の下手さ、その原因がなにか自分のことなので気がつきにくいのですね。
日本の研究者の多くが自分の研究の価値を充分に宣伝できずに、競争相手の宣伝力に遅れをとって、損している姿は、なんだか昨今の東アジア情勢をみてもつながるようなものを感じます。